戦国武傑列伝











《あ》
あかいけ‐ながとう【赤池 長任】
????(????)〜????(????)
伊豆守。赤池城主。相良家家臣。大口初栗合戦では島津義弘を窮地に追い込んだが、身代わりを使って逃げられた。


あけち‐みつひで【明智 光秀】
享禄元年(1528)〜天正10年(1582)
 美濃土岐氏の流れをくむ光綱の子と伝わるが、不詳。
諸国流浪ののち、永禄九年ごろ信長に仕えた。同十一年九月、信長の上落後、村井貞勝とともに京都の庶政を管掌。元亀二年に近江坂本城主となり、翌三年には九州の名族「
惟任」の姓をうけ、従五位下・日向守。ついで丹波平定に出馬し、波多野氏らを降した。
天正十年、中国で毛利軍と対峙する秀吉の後詰めを命ぜられ、居城丹波亀山を発したが、途中老の坂より京に転じ、六月二日払暁本能寺を急襲、信長を斃した。
だが十三日に山崎で秀吉軍に敗れ、逃走中に小栗栖で殺された。

あさい‐ながまさ【浅井 長政】
天文14年(1545)〜天正元年(1573)
 湖北小谷城三代目の城主。織田信長の妹お市の方を妻とし、その上洛を援助し、近江の大半を制圧する勢力を得た。しかし、信長が越前の朝倉義景を攻めるにおよんで、父祖以来の朝倉との盟約を重んじて、織田・徳川連合軍と姉川に戦ったが敗れた。朝倉および石山本願寺と結んで約三年間にわたって信長に対する反撃戦をくりかえすも、ついに居城小谷に攻めこまれ、お市の方と三人の娘を信長に渡して城と運命を共にした。遺された長女茶々は秀吉の側室淀殿で、次女初子は京極高次の妻、三女達子は徳川秀忠の妻となった。


あさの−ながまさ【浅野 長政】
天文16年(1547)〜慶長16年(1611)4月7日没。
出生地:尾張春日井郡北野。長吉、弥兵衛尉、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)
 安井重継の子。浅井長勝の養子。初め信長に仕えたが、秀吉と相婿の縁によりやがて配下となり、帷幕の諸将となって軍監役をつとめた。天正十五年に九州征伐の功をもって若狭一国・小浜城主となる。同十八年、小田原の役では武州岩槻城攻めの指揮をとり、ついで奥洲へ転戦。文禄二年には嫡子の幸長領と併せて甲斐二十二万石、ついで五奉行の首座となった。慶長四年、家康の暗殺を謀ったという疑いをかけられて武蔵八王子(府中とも)に隠棲。だが、関ヶ原の役では東軍に組した。


あしかが−よしあき【足利 義昭】
天文6年(1537)〜慶長2年(1598)享年六十一歳
 出家名覚慶、還俗して義秋、後に義昭、道号昌山道久、法号霊陽院、左馬頭・従四位下参議・従二位大納言・准后。
室町幕府十五代将軍。在位六年。父は義晴。母は関白近衛尚通の娘。尚通の嫡男稙家の猶子となって一乗院に入室、覚慶と称す
のち一乗院門跡。永禄八年。兄の義輝が松永久秀に襲われて自害した後近江に逃れ、還俗して義秋と名乗り、同十年、若狭から
越前一乗谷の朝倉義景を頼り、翌年元服して義秋と改名した。同じ年に岐阜の織田信長に迎えられ六角、三好、松永勢を破り信長に奉じられ入京十五代将軍となり、室町幕府を再興したが、権力を振るおうとしたため、信長と対立し、信長は義昭に永禄二年に「殿中の掟」を、元亀三年には「異見十七条」を提シテ動きを規制した。この間、義昭は武田信玄、浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如らと信長包囲作戦をはかり、天正元年四月、京都で挙兵したが敗れて講和する。七月、山城槙島城で挙兵するが半年で降服し、ここに室町幕府二三八年の歴史は終焉。
 しかし、義昭は河内の三好氏の許に身を寄せ、さらに紀伊から備後鞆に移り毛利元就を頼り幕府の再興をはかる。一時期、毛利、上杉がこの動きに応じたが挫折した。豊臣秀吉に招かれ帰京し、山城槙島一万石を与えられた。秀吉は征夷大将軍を望み養子にして欲しいと頼んだが、これを拒否した。慶長一二年八月二十八日没。



あまご−つねひさ【尼子 経久】
長禄2年(1458)〜天文10年(1541)享年八十四歳
  出雲の梟雄と恐れられ尼子家の基礎を築く 父は出雲守護代尼子清定。又四郎と称し、後に伊予守、民部少輔。月叟省心と号した。若くして名跡をついだが、文明十六年幕府により月山富田城を奪われ、諸国を流浪。二年後の元旦、奇策を持って富田城を陥し、塩冶一族を滅ぼして守護代に返り咲いた。その後、次第に勢力をのばし、隠岐、因幡、伯耆を手中にし、石見、安芸で大内義興と衝突した。初めは毛利、吉川一族を味方につけ、経久は優勢であったが、毛利元就が大内方についてより苦戦を強いられ、晩年は敗戦続きだった。長男の政久が若くして戦死したため、孫の晴久が跡目を継ぎ毛利、大内連合軍を月山富田城で撃退し、勢力を盛り返した。
因幡、伯耆、但馬、美作、備前、備中、石見、備後を勢力下におき、大内氏は、周防、長門、石見、豊前、筑前、肥後を手中にしていた。


あらき‐むらしげ【荒木 村重】
天文4年(1535)〜天正14年(1586)
 摂津の人。初めの名は強介。波多野義通の子孫。義村の子。
池田・三好氏に属し、天正元年から信長に仕える。翌年伊丹親興を攻め、伊丹(有岡)城を奪って城主となり、信長から摂津一国を与えられ、従五位下・摂津守に任じた。天正七年、毛利氏と結んで信長に叛し、十ヶ月余の籠城のあげく、単身脱出して毛利氏を頼り、剃髪して道薫と号す。信長は、その妻子一族郎党六百余人を尼崎七松で虐殺した。
村重は、晩年茶人として秀吉に仕え、千利休の門弟となり七哲の一人に数えられた。堺で病死。


あんこくじ‐えけい【安国寺 恵瓊】
天文7年?(1538?)〜慶長5年(1600)
 大内義隆に滅ぼされた、安芸の守護武田光広の遺児と伝えられる。
 幼名辰王丸。長じて京の南禅寺で修行し、安芸に帰り、安国寺の住職となる。
式事を好み、毛利輝元と深い交わりを結び、天正元年、将軍義昭の命で輝元が将軍と織田信長との和睦を斡旋したとき、上京して信長・秀吉と折衝したが、このとき信長・秀吉両名のその後の運命を予言したという。同十年、秀吉の備中高松城水攻めのとき、毛利氏と秀吉との仲介役を勤め、秀吉が天下をとると伊予六万石を与えられ、大名となった。関ヶ原の役では西軍に属し、敗戦後、京にのがれたが捕らえられ、慶長五年十月一日、三条河原で斬られ、梟首された。号は瑶甫。


《い》
いい−なおまさ【井伊 直政】
永禄9年(1561)〜慶長7年(1602)
 井伊氏は遠江の豪族で、代々今川氏に仕えていたが、直政十五歳のとき「汝はわがために命を落とせしものの子なり、われ報いずんばあるべからず」といって、家康から二千石で召抱えられた。武勇にも知謀にもすぐれ、「徳川四天王」の一に数えられ、天正十八年、家康が江戸に入城すると上州箕輪城主十二万石の大名になった。
武田の勇将山県昌景の「赤備え」を引きつぎ、常に先鋒をつとめた。
 関ヶ原の役にも字喜多勢・島津軍に突きかかって西軍崩壊のきっかけをつくり、主将三成の居城佐和山を与えられ、十八万石の城主となったが、戦傷のため二年後に死去。三十五万石の彦根藩井伊家の始祖。


いしだ‐みつなり【石田 三成】
永禄8年(1560)〜慶長5年(1600)没
 幼名は佐吉。治部少輔(じぶしょう)と称す。近江浜田郡石田村の旧家に生まれ、十四、五歳の時、ぬるいお茶から熱いお茶にかえた三碗の才を秀吉に認められて小姓に召し抱えられた。軍事よりも事務的才能を買われて栄達の道を進み、従五位下・治部少輔に任ぜられ、五奉行の筆頭となり、二十三万石の佐和山城主として故郷の湖北三郡の領主となった。 秀吉が長浜城主時代に取り立てた家臣の中の出世頭である。秀吉が死去すると、遺族の淀殿・秀頼母子のために五大老筆頭の徳川家康と関ヶ原の役でたたかって敗れ、六条河原で斬首された。その義理堅さは賞讃に価する。


いけだ‐つねおき【池田 恒興】
天文5年(1536)〜天正12年(1584)
勝三郎、信輝、入道号勝入美濃大垣城主。摂津の人。紀伊守。小字勝三郎。信輝ともいう。紀伊守を称し、入道として勝入と号した。
 父は紀伊守恒利、母の養徳院は織田信長の乳母。初め乳兄弟の信長の父信秀に仕え、星崎城攻めに功をあげた。
のち信長に従って戦功あり、本能寺の変ののちは秀吉に好を通じ、その推挙で織田氏の宿老となって清洲会議に出席、三法師(秀信)を織田の家督とした。
天正十一年、美濃国十三万石を、嫡子元助は岐阜城を与えられた。翌十三年四月九日、長久手の戦いに父子ともに討死した。年四十九歳。子輝政は、岐阜城から姫路城主へ。


いけだ‐てるまさ【池田 輝政】
永禄12年(1564)〜慶長18年(1613)
 出生地:尾張清洲。恒興の次男。古新、左衛門尉(さえもんのじょう)、
 織田信長に従い、弱冠16歳で荒木村重謀反のおり、花隈城の攻略で功を挙げ、賤ヶ岳の戦いの功により、父恒興が岐阜大垣城主になると池尻城主となり、小牧・長久手の戦いで父・兄之助が戦死、その遺領を継ぐ。小田原・会津に戦う。関ヶ原の戦には徳川家康に属して功をたて、播磨を与えられて姫路五十二万石、さらに備前二十八万石・淡路六万石を得り、三国併せて八十六万石を納めた。播磨宰相、西国将軍と称され徳川御三家も輝政が駿府に赴くときは安倍川まで出迎えたという。


いしかわ‐かずまさ【石川 数正】
????年(????)〜文禄2年(1593)
 康正の子。幼名与七郎。伯耆守・出雲守。
 家康が駿府へ人質として出されたときも随行するなど、辛酸を共になめた。永禄十二年、西三河の旗頭を命ぜられ、酒井忠次と共に松平(徳川)家の筆頭老臣になった。主人家康の代理として台頭著しい秀吉との折衝に度々あたり、才腕を認められた。小牧の役を経て、天正十三年十一月、秀吉の誘いに乗って岡崎を出奔、豊臣家に臣従し、翌年、和泉十万石を得た。このため、家康は陣法を一新したという。同十八年には信州松本十万石に転じた。


いじゅういん‐ただむね【伊集院 忠棟】
 

 
いたがき‐のぶかた【板垣 信方】
??年(????)〜天文17年(1548)
  信形にもつくる。駿河守。甲斐武田氏の一族で、武田信虎・信玄に仕えた。原虎胤・甘利虎泰・横田高松・萩原昌勝などとともに、初期の信玄を大いにたすけた。
山本勘助を信玄に推薦したことでも知られる。瀬沢の合戦・諏訪侵略戦・塩尻の合戦・佐久平定作戦などに活躍して、諏訪郡代に任じられた。天文十五年十月、信玄の代理で上野笛吹峠に出陣、上杉憲政の軍を破ったが、同十七年二月。村上義清との上田原の合戦で戦死。
いっしき‐ふじなが【一色 藤長】
??年(????)〜慶長元年(1596)
 式部少輔・従五位下。室町幕府御共衆。晴具の子。永禄八年五月一九日、将軍足利義輝が暗殺されたとき、義輝の弟興福寺一乗院門跡覚慶(後の義昭)も幽閉されていたが、藤長は細川藤孝とともに覚慶を脱出させることに成功した。その後、還俗した義昭に従い近江、若狭、越前を流浪し、同十年、将軍職に就けることに成功した。天正元年、義昭が信長に追放されたのちもその復帰を策して奔走したが、慶長元年四月七日没した。金地院崇伝は藤長の甥にあたる。


いんどう-よりやす【犬童 頼安】
 大永元年(1521)〜慶長11年(1606)
 熊徳丸。軍七。美作守。入道休矣。木枝城代犬童美作守重安の子。相良家家臣、武勇にすぐれ、天正九年島津勢の大軍に水俣城を包囲されて屈せず、新納忠元と連歌の応酬。水俣開城、義陽の討死の後、深水長智とともに幼主長毎を補佐、主家を存続させた。
 

《う》
うえすぎ‐かげかつ【上杉 景勝】
天文24年(1555)〜元和9年(1623)3月20日没
 通称喜平次。幼名卯松。顕景。中納言。長尾政景の次男で謙信の甥。妻は武田信玄の娘。謙信の死後、武田勝頼の援けを得て家督を相続。剛直律気だった。豊臣秀吉に仕え、五大老の一に列し、会津一二○万石に封をうけた。関ヶ原の戦に石田三成と結んだため、米沢三○万石に移封。大阪の陣では家康方として戦った。
会津中納言。弾正少弼。 
 北条氏から養子に来ていた景虎との跡目争いがおこる。「御館の乱」である。争いの当初は、実家の北条氏及び義兄の武田勝頼の後ろ盾によって、景虎が優勢だったが、景勝は勝頼に対し多額の報酬と妹を迎えることを条件に和睦。この外交戦略により、徐々に形勢を盛り返した景勝側が乱勃発後の翌年に景虎を自害に追い込む。
 これに勢いを得た景勝は国内を一気におさめ、上杉家の家督を継承するが、それも束の間、今度は武田氏を滅ぼした織田家の猛攻にあう。 新発田氏の反乱や魚津城陥落など、窮地に立たされるが、上杉氏には都合の良いことに本能寺の変がおこり信長は殺害され、今度は織田家の家督争いがおこる。 これによりからくも滅亡の危機を脱した景勝は、山崎の合戦に勝利した秀吉と盟約を結び、賤ヶ岳の合戦において越中の佐々成政を釘付けにし、秀吉の勝利に貢献。 これ以後、小田原の陣、朝鮮出兵などで活躍。これらの功により、五大老会津百二十万石の大大名に栄達する。
 しかし秀吉の死後、家康の天下取りが徐々に進む中、景勝は秀吉の知遇に報いるべく、あくまで家康に反抗する。 家康の再三の上洛の要請に応じようとせず、逆に石田三成と手を組み反家康の色を鮮明にしていく。 これが家康の狙い通りかどうかは定かではないが、しかし上杉氏としては謙信公以来の武門の名家として家康などに屈するものか、という意地もあったのであろう。 これにより家康の上杉討伐を招き、矛を交えず撤退していく家康を追撃しようという進言を退けた景勝は山形の最上氏を攻撃するも、関ヶ原での西軍敗退の報を聞くと会津へ撤退する。
 戦後、潔く降伏を申し出た景勝たちに感じ入ったのか、家康は米沢三十万石減封だけで景勝を無罪放免する。 その後は家康に反抗することもなく、大阪の陣では先鋒を務め功を立てている。 一六二三年没。 享年六十八。 

うきた‐ひでいえ【宇喜多 秀家】
元亀3年(1572)〜明暦元年(1655)
(「浮田」とも書く) 秀吉の養子。実父は宇喜多直家。八郎、中納言。
天正十年父直家の死去の後秀吉の尽力により信長から遺領相続をゆるされ、養父秀吉の一字を与えられて八郎秀家と名乗った四国征伐・九州征伐に従軍し凱旋後に従三位参議左近衛権中将に叙任され、備前宰相と通称される。
この頃、秀吉の養女お豪(前田利家娘)を娶る。文禄の役に朝鮮に渡海し、明国の大軍を碧蹄館(へきていかん)に大破させた帰朝後中納言に昇る。慶長2年再び朝鮮に渡るが秀吉の発病によって帰国し、7月に五大老の一人に列する。秀吉死後豊臣政権の中枢にあって政務に参画するが、関ヶ原の戦に敗れて八丈島に流され84歳で病死した。


《え》
えりぐち−のぶつね【江里口 信常】
????〜天正12年(1584)
藤兵衛、龍造寺四天王の一人。天下無双の剛の者としてしられ、島津家久と結んだ有馬鎮貴との戦いで隆信戦死を聴き、単身、島津家久の陣に乗り込み憤死した。



えんじょうじ−のぶたね【円城寺 信胤】
????〜天正12年(1584)
美濃守、龍造寺四天王の一人、室は鹿江兼明の娘。島原の合戦で討ち死にした。


《お》
おおうち‐まさひろ【大内 政弘】
文安3年(1146)〜明應4年(1495)
 周防、豊前、長門、筑前の守護。幼名亀童丸、小字は太郎という。教弘の子、寛正六年、父と共に伊予の河野通春をたすけて細川勝元の兵と戦い、父の卒するや、兵を収めて周防にかえる応仁元年五月、京都に大乱起こるに及び、山名宗全の招きに応じ、兵二万を率いて河野氏の兵と共に東上し、沿道の東軍を撃破してした。八月二十三日上洛し東寺に陣する。ここにおいて西軍が勢力を盛り返し、また、同二年正月、家臣の二保弘直、九州の豪族千葉乗胤・菊池武国・少弐教頼等と謀を通じて、遙かに東軍に応じたが、家臣の陶弘房等の活躍で弘直を撃つ、ついで伯父の教幸が兵を起こし長門赤間関に迫る、陶弘房の子弘護がこれを撃ち鎮めた。京都では、争乱長引き、且つ勝元、宗全相ついで逝き、また多くの兵が戦に疲れ逃亡したので、文明九年十月、幕府に降り、十一月に国にかえる。
 ついで兵を九州に出し、少弐・大友氏を撃破し、内政を整え、明国と通商する勘合印を有して貿易の実権を掌握し、従四位上左京大夫に進み相伴衆となる。明応四年九月十八日に卒す。


おおうち‐よしおき【大内 義興】
文明9年(1477)〜享禄元年(1528)
 政弘の子、山口に拠って中国西部・九州北部を領し、足利義稙を擁して入京、管領代となり一時幕権をにぎる。明と交易して財力を豊富にした。


おおうち‐よしたか【大内 義隆】
永正4年(1507)〜天文20年(1551)
 室町末期の武将。義興の長子。周防以下七ヵ国の守護。肥前・筑後・安芸などに出兵したが、家臣陶晴賢(すえ はるたか)の叛逆にあい長門深川大寧寺で自刃。文学を好み、書を外国に求め、大内版を開版するなど、文化上の功績大。


おおくぼ‐ただよ【大久保 忠世】
天文元年(1532)〜文禄3年(1594)没
 忠員の子。天文元年、三河上和田郷に生まれた。母は西三条公条の娘と伝わる新十郎・七郎右衛門。
永禄六年に三河一向一揆が蜂起すると、大久保党を率いて家康の苦境を救い、同十二年には、遠江懸川城の今川氏真を破った。
元亀三年十二月の三方ヶ原の戦いでは、敗戦に打ち沈む徳川家中にあって、犀の崖に布陣する敵に夜襲をかけて気を吐いた。
その後も家康の使者役を勤めるなど重用され、天正三年に長篠の合戦の功で、遠江二俣城主。十八年、家康の関東入国後は小田原城四万五千石。文禄三年に没した。


おおたに−よしつぐ【大谷 吉継】
永禄5年(1559)〜慶長5年(1600)9月15日
生国不詳。紀之介。平馬。はじめは吉継のち吉隆、刑部少輔(ぎょうぶしょう)
 九州大友家滅亡により流浪したが石田三成の推挙により姫路城主羽柴秀吉に仕え、百五十石。
天正十三年、従五位下・刑部少輔に叙任され、秀吉の一字をうけて吉継と称した。秀吉天下統一後越前敦賀五万石を領有して奉行を拝命。三十歳ごろから癩病を病み、顔容が崩れ、両目を失うに及んで解職を願いでたが許されなかった。慶長五年の上杉征伐に、一千の挙兵をもって従軍を決意するも盟友三成の家康征伐の意志を知り、西軍に投じ、関ヶ原の役で壮絶な死を遂げる。享年四十二歳。


おだ‐のぶなが【織田 信長】
天文3年(1534)〜天正10年(1582)
 天文三年五月、尾張国古渡城に生まれる。幼名は吉法師という(『信長記』巻一之上)。三郎とも呼んだ。父は古渡城主信秀。天文十八年に家督を継ぎ、弘治元年、清州に移る。傍若無人の少年時代、平手政秀の諌死で改心した。永禄三年、桶狭間に奇襲作戦で今川義元を倒してより、斎藤・浅井・朝倉・武田氏など強敵を滅亡させた。足利義昭追放、中国地方経略、石山本願寺開城、畿内平定をなしたが、天正十年六月二日黎明、京都本能寺で明智光秀に襲撃され、切腹した(『信長公記』巻十五)。四十九歳。墓は本能寺。


おだ‐のぶただ【織田 信忠】
弘治3年(1557)〜天正10年(1582)6月2日
 幼名奇妙。勘九郎。信重とも名乗る。秋田城介。左近衛権中将。
信長の長男。母は生駒氏。1572年7月19日、16才のとき北近江の浅井氏攻めで初陣。当時は元服前で奇妙の幼名で呼ばれていた。この年から翌年の間に元服し、勘九郎信重と名乗る。1574年7月〜9月、伊勢長島の一向一揆攻めに参陣。この時尾張衆の約半数と東美濃衆を引き連れている。翌1575年、長篠の戦い(5月21日)後の11月10〜24日に、武田勢の籠もる美濃岩村城を攻め、甲斐・信濃からの援軍の将を二十一人、侍千百余りを討ち取り、岩村城を攻め落としている。この功により、秋田城介に任官する。同年11月28日、信長から家督を譲られ、美濃、尾張を与えられ、岐阜を居城とした。以後、天下は信長、織田家は信忠が統治するという役割分担となる。
 家督を継いだ後、河尻秀隆、森長可、毛利長秀などを配下とし、紀伊の雑賀攻め(1577年2〜3月)、松永久秀の信貴山城攻め(1577年10月)石山本願寺攻め
(1578年4月)、羽柴秀吉を助けた播磨への援軍(1578年5〜8月)、荒木村重の有岡城・尼崎城攻め(1578年11月〜1579月12年)と戦に明け暮れ、石山本願寺攻め以降は信長に替わり総大将を務めた。この間、官位は左近衛権中将に昇進した。(1577年10月12日)石山本願寺との和議成立後、佐久間信盛、林秀貞、安藤守就、丹羽氏勝が追放(1580年8月12〜15日)され、美濃、尾張の支配範囲が広がった。
 1582年2月14日、信忠の尾張衆、美濃衆は滝川一益と共に、甲斐、信濃の武田攻めに出陣。伊奈口より進撃し、大島城、飯田城、高遠城を次々と攻め落とし、3月7日に甲斐の府中(甲府)に入る。3月11日、武田勝頼が自害、同日信長は美濃の岩村へ到着。信長が信濃へ入る前に、武田家を滅亡させた。
 武田家滅亡後の論功行賞(1582年3月29日)で、配下の河尻秀隆、森長可、毛利長秀はそれぞれ甲斐一国、信濃四郡、信濃一郡を封じられ、信忠の管轄区域が大幅に広がった。
 1582年6月2日、明智光秀が謀反、本能寺で父信長が自害。信忠は京の妙覚寺に宿泊していたが、堅固な二条御所に入る。明智方と戦うが防ぎきれず、鎌田新介の介錯で自害。享年二十六才。
 (筆者)信長は信忠を次の天下人として着実に育て上げ、信忠はそれに応えている。本能寺の変のとき信忠が京にいなければ、秀吉の思うままにはなっていなかったのではなかろうか。 


おだ‐のぶたか【織田 信孝】
永禄元年(1558)〜天正11年(1583)
 永禄元年生まれ。伊勢神戸城主・神戸具盛の養子となる。はじめ三七あるいは三七郎と称した。
父は織田信長(その三子)。父が伊勢を征服し、神戸具盛と和して信孝を養子に出したことから、神戸信孝の名で知られる。父に従って、伊勢、および越前の一向一揆攻めに参戦した。その後、雑賀攻撃、高野山攻め、摂津讃岐攻略などに加わった。父の死後は、兄信雄とともに、後継者たらんとして秀吉側の秀信と争ったが敗れた。柴田軍に属した賎ヶ岳の戦いにも勝利なく、秀吉の意をうけた信雄から自刃を命ぜられ、尾張知多郡内海の野間正法寺で果てた。


おだ‐ひでのぶ【織田 秀信】
天正8年(1580)〜慶長10年(1605)
 信忠の長男。幼名三法師。本能寺の変後、天正十年六月二十七日、信長の後継者と遺領分配を定める清洲会議の席上、秀吉に推されて織田家相続人となった。文禄元年に岐阜十三万三千石を領し、慶長元年、従三位.中納言。関ヶ原の役には、西軍に与して岐阜に籠城。東軍の先鋒、福島正則・池田輝政らに攻囲され、慶長五年八月二十三日、開城降伏。戦後、高野山へ入り、同十年五月、失意の中に没した。


おだ‐のぶかつ【織田 信雄】
永禄元年(1558)〜寛永7年(1630)
 「のぶお」とも読み、信長の次男。幼名を茶筅・三介といい、永禄十二年八月に伊勢国司北畠具教の子具房の猶子となり、具豊・信意と名のった。天正三年六月に具教から家督を譲られ、伊勢国司。暫時北畠を姓としたが、のちに復姓。本能寺の変後、兄信忠の嫡男三法師(秀信) の後見人となり、清洲城主。賎ヶ岳の合戦では秀吉と結んだが、その後、家康と通じた。小牧の役以後、再度秀吉と講和、天正十五年の九州征伐ののち正二位・内大臣に進んだ。しかし、小田原の陣後、家康の旧領へ移ることを拒絶して秀吉の怒りにふれ、天正十八年七月除封、常陸の佐竹氏に預けられ、剃髪して常真と号した。その後、佐竹氏の秋田転封のときに彼地へ移ったが、大坂の陣に秀頼からの誘いを断わり、元和元年、功により大和松山五万石。





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