戦国武傑列伝











《か》
かすや‐たけのり糟谷 武則
????年(????)〜????年(????)
播磨の出身。真雄ともいう。助右衛門尉、内膳正。
賤ヶ岳の七本槍の一人。

かたくら‐かげつな片倉 景綱
弘治3年(1566)〜元和元年(1624)
 景重の子。通称小十郎。伊達政宗の股肱として、天正十三年の安達郡人取橋、
同十七年の耶麻郡摺上原合戦をはじめ戦塵にまみれながら武功をかさねた。
小田原征伐のときには、政宗を説いて共に秀吉のもとへ伺候、主家を危地から救った。
慶長七年十二月には白石城を与えられて三千石を領した。その子重綱は一万七千余石に加増され、以後、片倉氏は幕末に至るまで白石をまもる。


かたぎり‐かつもと【片桐 且元】
弘治2年(1556)〜元和元年(1615)
 近江伊香郡高月村の生まれ。
浅井氏滅亡ののち、秀吉に仕える。通称助作、東市正ともいう。賤ヶ岳の合戦に七本槍の一人に加わって武名をあげ、小田原の陣や文禄の役に功があり、摂津茨木城一万二千石の城主となる。禄高は低いが、秀吉亡き後、秀頼の後見役として重要な地位にあり、豊臣・徳川両家のパイプ役をもって任じていた。だが、方広寺の鐘銘事件から、淀君の信任を失い、大坂城を出て茨木城に隠退した。それをきいた家康がこおどりして喜び、大坂城攻撃を指令したというから、事前に、何らかの連絡があったらしい。大坂落城と秀頼母子の自害に遅れること二十日の五月二十八日、没(切腹とも言われる)。


かとう‐よしあき【加藤 嘉明】
永禄6年(1563)〜寛永8年(1631) 1563〜1631没
 教明の子として三河に生まれる。初名茂勝。通称孫六。少年のころから秀吉のもとへ出仕し、「賤ヶ岳七本槍」の一。小牧の功により天正十三年七月、従五位下・左馬助に叙任、淡路志智一万五千石。十五年には、豊後戸次川合戦で殿軍して三万石加増。慶長の役では水軍として出陣、巨済島などで殊勲をたてた。慶長三年五月、伊予松前十万石。関ヶ原の役では東軍に与し、五年十一月に二十万石となる。寛永四年、さらに二十万石を加封のうえ、陸奥会津若松へ転じた。だが、後嗣明成は苛斂誅求にはしり、かつ重臣堀主水を殺害、これを咎められて除封され、その子明友は石見吉水一万石。


かとう‐きよまさ【加藤 清正】
永禄5年(1562)〜慶長16年(1611)6月24日没
出生地:尾張愛智郡中村。虎介、虎之助、主計頭(かずえのかみ)。
 清忠の子として尾張中村に生まれる。母は、秀吉の生母と従姉妹と伝わる。幼名を虎。通称虎之助。主計頭・肥後守。福島正則らと同じく幼少のころから秀吉に近侍、子飼いの武将として目をかけられる。賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一。天正十六年、佐々成政除封のあとをうけて肥後半国十九万五千石を領し、隈本(熊本)城主。朝鮮の役には先鋒となり、咸鏡道を進んで朝鮮の二王子を保護。蔚山籠城戦に武名をとどろかせた。関ヶ原の役当時は、領国にあって小西行長の宇土城、立花宗茂の柳河城を陥れ、戦後、肥後一円五十一万五千石。慶長十一年三月、浅野幸長と秀頼を護り、二条城における家康との会見を無事に行なわせた。しかし、その直後、本国へ帰る船中で病にかかり、間もなく病没した。


がもう-うじさと【蒲生 氏郷】
弘治2年(1556)〜文禄4年(1595)没 享年40歳
出生地:近江蒲生郡日野。鶴千代、忠三郎、飛騨守。
 実名は、「賦秀」「教秀」を経て、後に氏郷
 賢秀の子。永禄11年、父とともに信長に従い近江日野の所領を安堵された。鶴千代は人質として差し出され、信長の娘冬姫と結婚させられて、日野に戻る。蒲生親子は、越前金ヶ崎の朝倉攻め、姉川の合戦、比叡山焼討ち長島一向一揆討伐、石山本願寺包囲作戦などに出陣して、次第に頭角をあらわす。
 天正10年の本能寺の変のとき、安土城にいた信長の妻子を日野に退避させ、自らも籠城した。翌11年秀吉の伊勢滝川一益攻めに加わり、柴田勝家の滅亡後、日野を安堵された。翌12年の小牧・長久手の戦いに従軍し、占領下にあった織田信雄の旧領の松ヶ島十二万石をあたえられた。同15年九州征伐では、難攻不落の岩石城に熊井越中守を攻め伏せ、勇名を轟かし、従四位下侍従に叙任され、世に松ヶ島侍従とよばれた。同16年従四位左近衛権少将(さこんのしょうしょう)に叙任四五百森に城を築き、この地を松坂と改めるよって松坂少将と通称される。
 小田原征伐で戦功を挙げ、その功により会津・越後十二郡四十二万石を与えられた。会津黒川城を居城とした。
 以後会津少将の名で呼ばれたが、氏郷の、陸奥移封には、こんな逸話がある『常山紀談』によると退出してきた氏郷が柱によりかかって涙ぐんでいるのを見て山崎家勝という家臣の者が近づき「かかる出世、おめでとうございます」と言うと氏郷曰く、「恩賞を賜るなら、たとえ小国なりと都に近き所を望んでおったのに、この辺鄙に捨てられては、もはや志しも空しくなった」とはらはら落涙したという。 
 氏郷は武勇にすぐれた武人であり、治世家でもありまた知性豊かな文化人であった。彼は利休七哲に数えられる茶人でもあった。
 信長秀吉に仕え、遂には会津若松城主として92万石の大名として成長しながら天下への野望は早世によって潰えた。


《き》
きっかわ‐もとはる【吉川 元春】
享禄3年(1530)〜天正14年年(1586)没  57歳
享禄三年、毛利元就の次男として安芸郡山城に生まれる。幼名少靖次郎、のち治部少輔となる。天文十六年、従兄の吉川興経の養嗣子。弟の小早川隆景とともに、父元就・甥輝元を助けて各地に転戦。天正六年には秀吉軍を播磨熊見川に破り、上月城に籠る尼子勝久・山中鹿之介主従を討った。同九年、鳥取城の攻防では、寡兵をもって死戦を挑み、秀吉軍を後退させた。同十年、秀吉の天下掌握成ると、その下につくのを拒み、家督を長男元長に譲って安芸に隠居した。同十四年、九州の陣に従軍したが、豊前小倉で陣没した。五十七歳

きっかわ‐もとなが【吉川 元長】
天文17年(1548)〜天正15年(1587)
元春の長男。幼名鶴寿丸という。少輔次郎。治部少輔。元資。
父に武勇譲らず、学を好み和歌をよくし、また禅を学び悟道に入る。永禄七年以降父に従い各処の戦闘に加わり、尼子勝久、山中幸盛を討滅、伯耆羽衣石城及び備中忍山城の攻略にはもっとも功があった。天正十年父の隠棲後、同十三年叔父小早川隆景と共に伊予へ渡航、長宗我部元親征伐に従事し、八月佛殿城を攻略し十二月大坂に到り関白秀吉に謁し、翌十四年父と共に征薩軍に加わり小倉城、宇留津城、香春嶽の攻略に参加し、翌、天正十五年六月、日向に出征したが都公里の陣営に病歿した。享年四十歳。父元春の塋域に葬る。


きっかわ‐ひろいえ【吉川 広家】
永禄5年(1562)〜慶長10年(1605)
元春の三男。初名を経言。天正十五年六月、兄元長が日向出陣中に没したため家をつぎ、毛利両川の一翼をになって宗家を輔佐する。翌年、従四位下・侍従。十九年に秀吉の命により毛利領内の出雲能義その他で十四万二千余石を与えられ富田城主。文禄元年、朝鮮へ渡り、門慶の戦で敵勢をけちらたと伝わる。慶長二年にも再度渡海し、蔚山城救援に赴いてい同五年、関ヶ原の役には毛利輝元の代理となって伊勢攻略・伏見城攻撃に出馬。九月十五日の決戦では南宮山に陣したが、早くから家康へ内応して動かず戦後の毛利家存続に大役を果たした。自身は毛利領内で三万石の家臣となるよう命ぜられた。


きむら‐しげなり【木村 重成】
文禄2年(1593)〜元和元年(1615)
大坂城七将星の一人


《く》
くろだ‐ながまさ【黒田 長政】
永禄11年(1568)〜元和9年(1623) 
孝高の子。通称吉兵衛。甲斐守・筑前守。
十四歳で播州三木城攻めに初陣。天正十七年、父の所領をついで豊前中津十八万石を領した。文禄の役には先鋒となって渡海、金原・昌原を抜いて南海道を進み、小西行長の危機を救った。だが、のちに石田三成ら文治派と対立。関ヶ原の役では家康に従って戦い、その功により、筑前一国五十二万三千余石の大封をうけて名島城主。翌年から那珂郡福崎(福岡)に城と城下町をいとなみ、近世福岡藩の地歩を踏みかためた。


くろだ‐よしたか【黒田 孝高】
天文15年(1546)〜慶長9年(1604)
勘解由次官(かげゆのすけ)初め小寺を姓とし、官兵衛と称。剃髪して如水(じょすい)と号。
 天文十五年、小寺職隆の子に生まれる。幼名万吉、長じて官兵衛、入道して如水と号す。天正六年、織田信長に背いた摂津有岡城主荒木村重を説得に出かけ、城内に監禁された。同八年、秀吉より播磨揖東郡一万石を与えられ、その後も中国攻め、山崎の戦い、九州の陣などに活躍。同十五年には豊前十二万石に封ぜられたが、同十七年、家を子の長政に譲った。関ヶ原の役には、東軍として留守の兵を率いて豊後の大友義統を破るなど、大いに活躍した。また、子の長政も家康に与して功を上げたため、筑前五十二万石を与えられた。慶長九年三月没。五十九歳。
 孝高は、熱心なキリスト教信者で、洗礼名をドン=シメオンといい、博多の教会堂に葬られたともいう。


《け》

《こ》
ごとう‐またべえい【後藤 又兵衛】
永禄3年(1560)〜慶長19年(1615)
 名を基次。
 初め播州三木城主別所氏に仕えたが、やがて黒田孝高・長政に属した。天正十七年、豊前城井谷の宇都宮鎮房を討って大功をあげ、朝鮮の役でも長政をよく輔佐した。関ヶ原の役後、長政が筑前一円を領すと采地一万六千石を与えられ、嘉麻郡小隈城主。母里太兵衛・黒田三左衛門とともに黒田八虎に数えられた。だが、長政と対立し、主家を離れて流浪の身となったが、仕官の口も長政によりことごとく邪魔された。慶長十九年の冬に秀頼に招かれ、浪人姿で大坂へ入城。夏の陣には、大和方面へ馬を進めるが、道明寺河原の合戦で奥州伊達軍に討たれた。大坂城七将星の一人


こにし-ゆきなが【小西 行長】
弘治3年(1557)〜慶長5年(1600)
 堺の薬種商小西隆佐の次男。通称弥九郎。
初め宇喜多直家に仕え、宇喜多氏が信長に降伏するど秀吉の部下となり、水軍の将として敏腕を振い、従五位下・摂津守に叙任、豊臣の姓を許された。肥後の佐々成政の一揆を加藤清正と共に鎮圧し、肥後の南半国二十四万石の宇土城主となる。朝鮮の役には明将、沈惟敬を従えて帰国、講和を斡旋したが、成功しなかった。秀吉の死後、三成と結んで関ヶ原に徳川家康と戦い、敗れて六条河原で斬られた。ドム=オーギェスタンの教名をもつ熱心な切支丹で、ローマでは彼の刑死をきき、全市をあげて哀悼の祈りをささげたという。四十三歳。


こばやかわ‐たかかげ【小早川 隆景】
天文2年(1533)〜慶長2年(1597)
 毛利元就の三男として生まれる。幼名徳寿丸、通称又四郎。
同十二年、大内義隆の将、小早川正平の後をつぐ。同十三年より義隆の人質となったが、同二十年大内氏が滅ぶと、甥の毛利輝元、兄の吉川元春を援けて毛利氏の版図を広げ、天正十年、秀吉が備中高松城を囲むと、その講和に努めた。同十三年、四国征伐に従軍、秀吉より伊予三十五万石に封ぜられた。
文禄の役では立花宗茂らと碧蹄舘に李如松を撃破、勇名をうたわれた。文禄四年、秀吉の五大老の一人となる。だが、病いのために同年、家督を養子の秀秋に譲り、備後三原城に隠棲し、慶長二年六月十二日、卒した。六十五歳。


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