戦国武傑列伝



《ま》

まえだ‐としいえ【前田 利家】
天文7年(1538)〜慶長4年(1599) 
尾張愛知郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子町)で生まれる。土豪前田縫殿助利昌(春)の四男。幼名犬千代。通称孫四郎、のちに又左衛門と名のる。犬千代と呼ばれた十四歳のとき、天文十九年、知行高五十貫(百二十五石)で信長に仕え、尾張海津の合戦に初陣。永禄二年、私闘をひきおこして織田家を追放されたが、二年後、戦功があり織田家に復帰。北陸攻撃に勲功あり、越前府中三万三千余石を領し、天正九年、能登七尾城主となる。賤ヶ岳の合戦以後、秀吉に通じ、加賀を加封されて金沢に移り、豊臣五大老に累進。慶長四年閏三月、徳川・石田両派の対立を案じつつ六十二歳で卒した。槍の又左

まえだ‐としなが【前田 利長】
永禄5年(1562)〜慶長19年(1614)
 永禄五年、前田利家の長子として誕生。父利家の七尾城転封後、信長の娘と結婚し、利勝と名のり、天正九年、越前府中三万三千余石を襲封。十一年、柳ヶ瀬の役に従い、翌十二年には末森の戦いに従軍。十三年、越中守山城に拠ったのち、九州島津征伐に転戦し、ついで富山城を築いて拠る。十八年には秀吉と父利家に従って関東に出陣、北条氏を征す。文禄元年、征韓の役には利家の留守を守って尾山城を修し、金沢城と改めた。慶長四年四月には父の遺領も併有、母芳春院を江戸へ人質として出し、翌五年、関ヶ原の役に大聖寺城を抜いて小松の兵と戦い、加越能百二十万石の原型を領治。のち、弟利常に前田家を譲って高岡城を築き、慶長十九年、五十三歳で同城に卒した。

まえだ‐げんい【前田 玄以】 
天文9年(1540)〜慶長7年(1602) 
 尾張に生まれる。僧籍にあり、徳善院・半夢斎。民部卿法印。
本能寺の変に際し、信忠の子三法師(秀信)を護って二条城から脱出。その後秀吉に仕え、天正十三年に丹波亀山五万石。慶長三年、五奉行の一人となり、京都の庶政・寺社の事務を取りしきった。関ヶ原の役には西軍に通じて大坂を守ったが、本領を安堵された。その子茂勝は丹波八上に移封後、十三年六月に発狂して除封。一説に梅毒という。

ました‐ながもり【増田 長盛】
天文14年(1545)〜元和元年(1615)
 近江東浅井郡増田村の出身。字は仁右衛門。
長浜城主時代の秀吉に仕え、小牧の戦に先陣し兜首二級を得て武名をあげ、二万石を加増された。天正十三年、五奉行の一人に加えられ、知行や庶務を処理した。文禄四年、大和郡山城主三十万石に転じ、秀吉の死後、石田三成らが家康暗殺をはかったとき、家康に密告。だが、関ヶ原の役は西軍に加わり、武蔵岩槻に流された。大坂冬の陣に大坂城の偵察を家康から命ぜられたが、拒絶。長男盛次が、冬の陣に大坂方に加担戦死したことで切腹を命ぜられた。

まつだいら‐ただよし【松平 忠吉】
天正8年(1580)〜慶長12年(1607)没
出生地、浜松。幼名はお次。母親は西郷の局で一歳違いの 秀忠 と同じである。天正八年に 浜松城 で生まれた忠吉は翌九年に一族の東条松平家の養子に出す。天正十二年の小牧・長久手の戦い後、次男秀康同様人質として大阪に送られる。
天正十八年家康に関東二百五十万石が与えられ、忠吉は武蔵忍城十万石の領地が与えられた。
天正十九年忠吉は大阪より帰国したが、幼年の忠吉に変わり家康の指示により伊奈忠次が武蔵領の検地を行っていた。
母親が同じである秀忠・忠吉の親密さは終生変わらず、秀忠にとって忠吉はもっとも頼りにしていた弟であった。
関ヶ原の合戦で家康は成人した四人の息子を東海道侵攻軍先手の大将に忠吉を起用し、補佐役に井伊直政と本多忠勝をつけた。
次兄 秀忠 は中山道を長兄 秀康 は関東奥羽の大名と上杉の押さえに回った。
また信吉は病弱だったため江戸で留守を守った。
家康により息子たちを諸大名を率いる大将にしたところに徳川の下での戦いをイメージさせる政治的な思惑があった。
関ヶ原では合戦の先駆は徳川家であると、先鋒に予定されていた福島正則を出し抜いて松平忠吉・ 井伊直政 隊は西軍めがけて戦闘を開始した。
この抜け駆けともいえる強硬な行動には徳川の主力である秀忠軍が間に合わず、徳川の面目を保つためだと考えられる。
忠吉と直政は果敢な戦闘の末、共に負傷したが戦勝後家康に謁見した直政は忠吉を絶賛し家康もまた補佐役の直政に感謝した。
家康はその武勇を愛し、秀忠を廃嫡して後嗣にと考えたが、大久保忠隣の強い反対よって話は沙汰止みとなった。
関ヶ原の合戦後忠吉は尾張清洲城主となり、慶長五年忠吉は伏見に滞在し伏見城と城下町の再建にあたり朝廷や豊臣家の押さえとして期待された。
しかし慶長九年頃から病床につくことが多くなり慶長十二年江戸参勤の途中芝浦で病死する。


まつだいら‐ただてる【松平 忠輝】
文禄元年(1592)〜天和3年(1683)没
出生地、江戸。文禄元年茶阿の方との間に生まれる。幼名は辰千代。
生まれたばかりの忠輝を見た家康はあまりの人相の悪さに「捨てよ!」と命じたとも言われている。皆川広照に預けられた忠輝は、慶長五年長沢松平家一万石を継ぎ、松平忠輝と名乗る。慶長七年下総国佐倉五万石、翌八年信州川中島十四万石と将軍宣下を受けた家康の子にふさわしい移封を続ける。
同十年伊達政宗の娘、五郎八姫を妻に迎える。家康の息子は信康・秀康・忠輝といった武将派と秀忠・忠吉といった温厚派に別れるが、忠輝も信康・秀康同様不幸な人生を送ることになる。家中の争いごとが絶え間なく続き、なんとかそれも収まり、慶長十五年越後福島城七十五万石として封じられる。
 しかし、福島城が気に入らず新たに越後高田城を築城し移り住んだ。慶長十九年大阪冬の陣が始まり、忠輝は江戸留守役を命じられるが、忠輝は不満の意を表し高田城から出ようとしなかったが、舅の伊達政宗に説得され江戸に向かった。
翌元和元年大阪夏の陣で忠輝は大和口の総督となったが進軍しようとはせず家康・秀忠も忠輝の処分を考えざる得なくなった。
秀忠の旗本二人を無礼討ちにした一件も重なりついに元和二年所領没収のうえ伊勢に配流になる。
将軍の弟でも軍規を乱す者は容赦はしないという幕府の威信があった。その後信州諏訪に移され諏訪高島城主諏訪頼水のもとで自由な生活を送り九十二歳で病没。将軍家はすでに五代将軍綱吉の時代になっていた。
忠輝改易には、大久保長安が忠輝をそそのかし、舅である伊達政宗が擁立して将軍秀忠に謀反を起す計画があったとされる。
まつなが‐ひさひで【松永 久秀】
永正7年(1510)〜天正5年(1577)
 摂津富田の豪族の出身といわれる。芥川城主三好長慶に仕え、その娘を妻として家老に栄進、弾正忠に任ぜられる。大和の筒井順慶を追い多聞山城を築きこれが近世城郭の端緒となった。
長慶の弟、安宅冬康を讒言して長慶に殺させ、長慶を悶死(もんし)させ、幼主義継をたきつけて、将軍義輝を殺させ、三好三人衆と争って奈良の大仏殿を焼いた。京都・奈良・堺をにぎり、畿内を制圧したが、信長が義昭を奉じて上洛すると、いち早く降伏した。のち義昭を援けて信長と争い、居城信貴山を包囲され、名器「平蜘蛛の釜」を砕いて自刃。


《み》
みやべ‐けいじゅん【宮部 継潤】
  ????〜慶長4年(1599)
孫八・善祥坊・中務卿法印


《む》
むらい‐さだかつ【村井 貞勝】
  ????〜天正10年(1582)
吉兵衛・民部丞・長門守・号春長軒


むらかみ‐よしきよ【村上 義清】
元亀3年(1503)〜天正元年(1573)
左衛門尉・周防守
信濃葛尾城主。武田信玄の攻撃を二度も退け、武勇を轟かし


《め》
めんじゅ−かつてる【毛受 勝照】
????〜天正11年(1583)
吉親・勝介
柴田勝家の臣賤ヶ岳の合戦で敗走する勝家を助け奮戦し討死。

《も》
もうり‐たかもと【毛利 隆元】
大永3年(1523)〜永禄6年(1563)
 元就の長男。幼名は少輔太郎。毛利家は当初、尼子氏に属していたが、本家相続問題などから大内氏に属することとなり十四歳の時、人質として山口の大内氏のもとに赴く。大内義隆の偏諱をうけ元服し、隆元と命名。五年の山口滞在の後、帰国。家督を継ぎ、元就とともに中国計略に従事。厳島合戦では、元就、春元、隆景とともに陶晴賢を討ち取った。永禄六年、尼子征伐の途中、安芸佐々部にて急死。

もうり‐もとなり毛利 元就
明応6年(1497)〜元亀2年(1571)
 明応六年、安芸国吉田村に生まれる。父は吉田庄地頭毛利弘元。永正八年、元服して少輔次郎元就と称す。永正十三年、兄興元が死去し、嗣子また夭折したので宗家をつぎ、郡山城主となる。天文九年、尼子晴久の大軍を大内義隆の援兵を得て破り、義隆没後の弘治元年、陶晴賢を厳島に破って防長二国を手中にした。永禄九年に月山富田城に尼子義久を討ち、安芸ほか十力国を領囲に収めた。長子隆元の没後は、その子輝元を中心に、次男の吉川元春、三男の小早川隆景などの協和を説き、家の安泰をはかった。元亀二年、郡山城に卒す。七十五歳。孫の輝元が家督をついだ。

もうり‐てるもと【毛利 輝元】
天文22年(1553)〜寛永2年(1625)
 天文二十二年、隆元の子として生まれる。幼名幸鶴丸・少輔太郎。
永禄六年八月、父が備後和智で急死したため、十一歳で家をつぎ、祖父元就、叔父吉川元春・小早川隆景の後見をうけた。同八年春、尼子氏との持久戦がつづく月山富田城に参陣、翌年十一月には尼子義久を降した。天正五年以降、侵入をくわだてる織田信長の部将秀吉と各地で干戈を交えたが、天正十年六月、備中高松城下で停戦。十二年ころから秀吉に服属し、十九年に安芸・長門・周防・石見その他百二十万石を安堵され、父祖伝来の吉田都山城から広島へ居城を移した。慶長二年前後に五大老の一。関ヶ原の役では、安国寺恵瓊に説かれて西軍の盟主となったが、敗戦により、防長二国二十九万余石に減封された。
もがみ‐よしみつ【最上 義光】
天文15年(1546)〜慶長19年(1614)
 義守の長男。幼名白寿。弟義時を父が寵愛したため、一時内紛を起こしたが、重臣氏家守棟の奔走で元亀元年に家を継ぎ、山形城主。天正二年、義時が反義光派の天童氏ら最上一族を糾合して挙兵し、隣国米沢の伊達輝宗もこれを援けたので、苦戦をしいられたが、九月に伊達軍と和睦。翌三年に義時を自刃させ、同八年には反抗する一族を屠って村山郡を制圧、以後、急速に勢威をまし、庄内に進出して武藤義興や伊達政宗と干戈を交えた。天正十八年六月、徳川家康の勧めで小田原に参陣、遅参をとがめられたが最上郡を安堵された。関ヶ原の役では東軍に与し、直江兼続指揮下の上杉軍と畑谷・長谷堂で戦って敗れたが、戦後、村山・最上二十四万石の本領に庄内・由利三十三万石を加封され、慶長十六年三月には従四位上・左近衛権少将。十九年一月、山形城で没した。
嫡子源五郎義俊は、元和八年に失政を咎められ、わずか一万石に減封。

もり-ながよし森 長可】
永禄元年(1558)〜天正12年(1584)
出生地:美濃羽栗郡蓮台。勝蔵、長一、武蔵守
 可成の次男父に劣らず勇猛で、父の戦死後、十三歳で美濃兼山城主となる信忠軍団に属し、越中・摂津などで戦う。天正十年二月武田攻めの先鋒として活躍。戦後北信濃四郡を与えられ、美濃旧領とあわせ二十万七九〇〇国を領す。またこの時、武蔵守の受領名を与えられ、後に鬼武蔵の異名をとった。
 やがて本能寺の変で信長が倒れると、信濃にいた長可は急遽、美濃へ帰って東美濃の平定に奮戦、小牧の戦いの時、秀吉方につき天正十二年四月九日、長久手の戦いで討死にした享年二十七歳であった。

もり-よしなり森 可成】
大永3年(1523)〜元亀元年(1570)
 美濃出身、三左衛門。弘治年間から信長の臣として活躍している。信長入京時すでに部隊指揮官の一人であった。入京後、京都の政治に関与。元亀元年五月、近江志賀・宇佐山城を預けられ、柴田勝家・佐久間信盛・中川重政とともに琵琶湖南岸を固めた。同年九月二十九日、朝倉・浅井軍に宇佐山を攻められ、防戦に努めたが討死にした。

《や》

やぎゅう‐むねよし【柳生 宗厳】
大永7年(1527)〜慶長11年(1606)没
 大和添上郡楊生郷の豪族。幼名新介、晩年石舟斎と号す。
香取新十郎に新当流の剣術を、宝蔵院胤栄に槍術を学ぶ。永禄六年、多武峰の衆徒との合戦に父家厳と共に松永久秀方に加わり武名をあぐ。同年来訪の上泉伊勢守に入門し、新陰流の皆伝をうけ、無刀取りの秘術を創案。多くの大名が門弟になった。文禄三年、家康から京都へ招かれ、五男宗矩と無刀取りを披露、宗矩は五百石で召抱えられた。関ヶ原の役に宗厳は、家康の命令で畿内の情報を偵察して報告。宗矩は次第に栄進し、一万二千五百石の将軍師範役兼大目付となる。

やまもと‐かんすけ【山本 勘助】
不詳(????)〜永禄4年(1561)
 勘介とも書く。名は晴幸。『甲陽軍艦』が華々しい活躍を伝える。三河に生まれ、諸国遍歴ののち馬場信房の推挙で武田信玄に召抱えられた、という。隻眼、足が不自由で、全身にいくさ傷を負った醜男ながら、兵法・築城の術に長じ、天文十九年の戸石の合戦で武田軍の潰滅を防いだり、諏訪頼重の娘を信玄の側室に迎えるべく奔走するなどした。永禄四年九月、第四次川中島の合戦で、足軽隊を率い、乱戦の中で討死をとげた。謎多き人物だが「市河文書」に出本菅助の名が見え、実在が明らかとなった。

やまのうち‐かずとよ【山内 一豊】
天文15年(????)〜慶長10年(1605)
尾張岩倉に生まれる。初名猪右衛門。父は盛豊。
父とともに尾張岩倉の織田敏信・信安に仕え、信長に対立していた。のち羽柴秀吉に属して、天正六年、五百石を与えられ、安土城下に住む。この時に駿馬を黄金十両で購入する、一豊の妻(江州浅井氏の士若宮友興の娘)の広く知られた話がうまれた。その後、天正十八年、遠江掛川城主となり、関ヶ原の役には徳川家康に属した。戦後は高知城主となり、土佐一国を与えられた。慶長八年三月二十五日、従四位下・土佐守となり、同十年九月二十日、六十歳で没す。

やまな−そうぜん【山名 宗全】
応永11年(1404)〜文明5年(1473)
 但馬出石に本拠を持つ守護大名。弾正少弼。名は持豊、法名、宗全嘉吉の乱で赤松氏を討ち、その遺領播磨のほか、但馬、備後など一族で八ヶ国の守護を兼ねる(六分一殿)。赤入道の異名で足利幕府で勢力を振るい一休和尚から鞍馬の毘沙門天の化身だと評せられる。将軍義政の子義尚派と弟の義視派が対立すると、宗全は義政の正室富子の依頼で義尚を擁し、西軍の総帥として東軍の総帥細川勝元と、天下の守護大名を二分して応仁の乱を戦った。戦乱は六年つづき、文明五年宗全と勝元の病死によって終息し、争乱は地方へと移行した。

やまなか‐しかのすけ【山中 鹿之介】
生・不詳(????)〜天正6年(1578)
名は幸盛、通称甚次郎、のち鹿之介と改める。
尼子氏の臣。主家が毛利元就に滅ぼされてのち京にのがれ、永禄十二年、毛利氏が筑前で大友氏と対峙する隙をつき、主家の一族勝久を奉じて出雲に入り、富田城を回復しようとしたが成らず。以後、連戦連敗し、ついに捕えられたが、厠より逃走、京に奔って信長に頼った。天正五年、秀吉に従い、播磨に入って上月城を守る。しかし、毛利方の攻撃をうけ、糧食斥きて勝久は自殺した。鹿之介は、降伏して吉川元春の命をねらおうとしたが、見破られて備中合の渡で殺された。
 

《ゆ》

ゆうき‐ひでやす結城 秀康
天正2年(1574)〜慶長12年(1607)
 徳川家康の次男で、二代将軍秀忠の兄。天正二年に生まれ、剛勇をもって知られた。
幼名於義丸。母は家康の正室築山殿の侍女お万。家康は、彼の出生に対し疑惑を抱いていたらしく、三歳でようやく父子の対面となり、天正十二年、豊臣秀吉の養子に出され、十四歳で元服。九州に出陣し、巌石城攻めの先鋒となって功をたてた。名を改め、羽柴三河守秀康。十七歳のとき、下総の豪族結城家を相続。慶長五年、越前北ノ庄に移り、所領七十五万石を領し、松平の姓に復した。性豪放にして武を好み、家康に対する反感は募り、間もなく強度の梅毒に冒され、不平と焦燥のうち、慶長十二年、三十四歳で没した。

《よ》
よしひろ‐あきただ【吉弘 鑑理】
????〜元亀2年(1571)
太郎・鑑直・左近大夫・伊予守。大友家臣。豊後三老の一人として勢力拡大に貢献する。勢場ケ原の戦いで大内軍を撃退し、多々良浜合戦で毛利軍を破るなど、多くの合戦で功を立てた。立花鑑載・高橋鑑種・原田親種の謀反を鎮圧。二男孫七郎は旧高橋領と継ぎ鎮種と称した。高橋紹雲のことである。


《わ》
わきさか‐やすはる【脇坂 安治】
天文23年(1554)〜寛永3年(1626)
 近江東浅井郡小谷村出身。字は甚内。父の安明は浅井家の家臣で、観音寺城攻めで戦死。安治は明智光秀に属し、十六歳で初陣、丹波黒井城攻めで勲功をたて、敵将赤井悪右衛門から雌雄の貂の皮の旗指物を贈られ、徳川時代になっても行列の槍の先に貂の皮をつけた。三木城攻めでは秀吉から輪違いの紋の母衣をもらい、以後、家紋とした。賤ヶ岳の合戦には七本槍の一人に加わり、ついに三万三千石の洲本城主。関ヶ原の役には途中から徳川方に寝返り、二万石加封で大洲城主に栄転。嫡子安元の養子安政のとき、播磨龍野に転封。


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