戦国武傑列伝




《な》
なおえ‐かねつぐ【直江 兼続】
永禄3年(1560)〜元和5年(1619)12月19日没
 初名重光。山城守。越後与板城主樋口与左衛門の子。幼時より上杉謙信に仕え、美貌をもって寵愛されたという。天正十年、直江実綱の家を継ぎ、景勝の側近になった。同十四年、景勝に従って上洛、豊臣秀吉に気に入られ、従五位下・山城守、豊臣の姓をうけた。景勝が会津百二十万石に封じられると、米沢で三十万石を知行。関ヶ原の合戦では一方の立役者であったが、敗戦後、主家の安泰に奔走した。元和五年に江戸で没した。享年六十歳。

ながお‐まさかげ【長尾 政景】
大永7年(1527)〜永禄7年(1564)
 新五郎。越前守。上田板戸城主。長尾為景の兄房景の子で、初め晴信を支援して謙信と対立したが、謙信が春日山城主になるにおよんでこれを輔佐した。謙信の姉を室とし、謙信のもっとも忠実で、大きな支柱であった。謙信の出陣中は留守をあずかり、仕置きを行なった。一族中の筆頭であり、謙信につぐ勢力をもっていた。永禄七年七月、野尻湖で舟遊中あやまって溺死した。壮年の三十八歳だった。上杉景勝の実父である。


なかがわ‐きよひで【中川 清秀】
天文11年(1542)〜天正11年(1583)
 摂津茨木四万石の城主。通称瀬兵衛。重清の子。初め荒木村重に属し、和田惟政を糠塚の戦いで討ち取った。村重が信長に背くや秀吉の勧誘で高山右近と共に信長に降った。山崎の合戦では秀吉軍に属して、武功をたてる。賤ヶ岳合戦では手兵一千で大岩山の砦を守り、緒戦で佐久間盛政の四千の兵の攻撃をうけ、敵陣に突入すること九回、全員玉砕をとげた。その子秀政は、父の功により播磨三木城をもらい、朝鮮の役に出陣して討死した。その弟秀成が家を継ぎ、豊後竹田城(岡城)七万四百石を領し、関ヶ原の役には東軍に属す。

なかむら−かずうじ【中村 一氏】
年不明?〜慶長5年(1600)7月17日没。
出生地:尾張の人。孫平次、式部少輔(しきぶのしょう)
駿河府中城主 姓は藤原氏、天正五年羽柴秀吉に属し、堀尾吉晴とともに大阪石山本願寺の一向門徒を天王寺に破る。十二月五日和泉岸和田城主となり、翌年四国征伐で阿波木津城攻略に参戦する。小田原の役にも功を挙げ、駿河国府中城主、十七万五千石となった。
東軍に加わった関ヶ原の役のころ突然病死した。

なごやま‐さぶろう【名古山 三郎】 
不詳(????)〜慶長八年(1603)没
九右衛門、宗円。蒲生氏郷に仕え、天正十八年八月、奥州南部氏の家臣九戸政実の乱の時氏郷の先手となって一番乗りの軍功をあげ、氏郷の死後、会津を去り剃髪して宗円と称す。慶長の初めに還俗して九右衛門と名乗り、親類の森忠政に仕え、信濃川中島で五千石を得る。慶長八年三月、忠政の転封に従って美作に赴き、築城工事場で同僚の井戸宇右衛門と喧嘩して双方とも斬死した美男で浮名を流したため阿国歌舞伎で阿国の愛人として脚色され、舞台上の人物として広く知られている。


なつか‐まさいえ【長束 正家】 
不詳(????)〜慶長5年(1600)没
 近江栗太郡常盤村の出身。通称利兵衛。
 若くして計算に長じ、丹羽長秀に仕えて財政処理に敏腕を振るい、秀吉がこれをきいて一万石で召抱え、貢租会計を管掌させ、従五位下・大蔵大輔に叙任。五奉行の一人。小田原の陣や朝鮮の役には、糧食の輸送に活躍した。秀吉の死後、家康に近づき、三成の暗殺計画を知らせたりしたが、結局、三成に味方し、東下中の家康を、居城水口で謀殺せんとしたが失敗した。関ヶ原の役で安濃津城を攻め、大垣城に拠って三成を待ったが、敗戦後、水口城に帰ろうとして徳川軍に囲まれ、切腹。


なべしま−なおしげ【鍋島 直茂】
天正7年(1538)〜元和4年(1618)
 天正七年、肥前本庄に生まれる。
竜造寺氏の一族鍋島清房の子。初名は信安、幼名は彦法師、元服して孫四郎、のちに直茂と改めた。竜造寺隆信に仕え、大友氏との度重なる合戦に武勇を発揮した。天正十二年、肥前島原で隆信が戦死すると、龍造寺家の実権を掌握した。九州征伐には主の政家の名代として秀吉の旗下に参じ、同十八年、政家が隠退すると、秀吉より竜造寺家の襲封を許されて、肥前佐賀城主三十五万七千石の太守となる。文禄の役では、加藤清正とともに朝鮮王子を捕虜とした。
関ヶ原の役のときは肥前に在り東軍の勝利がわかると筑後に兵を出して、毛利秀包の籠る久留米城を攻め取り、ついで立花宗茂の居城、柳河城を攻めおとした。元和四年六月三日,佐賀城に病死。八十一歳。その生前の言行は、藩士山本常朝が語り残し、武士道の修養書『葉隠』の典籍となった。

なりた−のぶかつ【成松 信勝】
????〜天正12年(1584)
新十郎、刑部少輔、遠江守
龍造寺四天王の一人。今山合戦で大友軍の総大将大友親貞の首級を挙げ、隆信に感状を受ける。沖田畷の合戦で隆信の戦死を知ると名乗りを上げて、後を追うように討ち死にした。


なんぶ‐のぶなお【南部 信直】
天文15年(1546)〜慶長4年(1599)
 南部氏の支族石川高信の長子。幼名田子九郎。天正十年、北信愛・八戸政栄ら一族・重臣の支持をうけて南部の当主に迎えられ、三戸城に入った(一説に永禄八年、元亀三年ともいう)。
以後、津軽為信の独立や一族の統率等に苦しむが、時代の趨勢を的確にみきわめ、天正十五年に前田利家を通じて秀吉に接近、十八年七月、小田原で秀吉から本領を安堵された。九戸の乱が超こると、十九年五月に上京、情勢を報告した。乱後、津軽為信に誤給された津軽三郡の替地として和賀・稗貫(ひえぬき)・志和三郡を与えられて十万石。九戸城を福岡城と改めて三戸から移り、その後、慶長二年から翌年にかけて、嫡子利直を総指揮に新城と城下町を岩手郡仁王郷不来方(こずかた)に築いた。近世南部藩の首邑(しゅゆう)として栄えた盛岡である。

《に》
にいろ-ただもと【新納 忠元】
大永6年(1526)〜慶長10(1610)
次郎四郎。刑部大輔。武蔵守。拙斎。為舟。島津家家臣。義久の側近。小柄な躯であったが胆力非凡で戦に強く、知略に優れ鬼武蔵と呼ばれた。また、歌道や俗謡にも通じていた。
『二才咄格式定目』を定めて弟子を戒めた。大口城主。


にわ‐ながひで【丹羽 長秀】
天文4年(1536)〜天正13年(1585)
 尾張丹羽郡丹羽郷より興きた丹羽族は、奈良朝期すでに丹羽臣とみえる名族を出自とし、その裔丹羽長政の長子として天文四年に生まれた。通称五郎左衛門。天文十九年、十六歳で織田信長に仕え、「米の五郎左」の異名をもつ。戦功あって元亀二年、江州佐和山城主となる。天正三年四十歳のとき鎮西の名族『惟住氏』を称し、若狭に転じ十万石を領治。本能寺の変が起こると、信長の三男信孝とともに光秀の女婿津田(織田)信澄を討ち、秀吉軍に加わり、清洲会議で織田四宿老の一人となる。賤ヶ岳の合戦後、越前一国・加賀二郡百二十三万余石を領有し、越前府中の城主となる。天正十三年に五十一歳で没した。


にしな‐もりのぶ【仁科 盛信】
弘治34年(1557)〜天正10年(1582)
 武田信玄の5男として生まれる。五郎、晴清、薩摩守。信濃高遠城主。勝頼の弟、
母は油川氏の出身。永禄四年、信濃安曇郡の名族仁科家に入り親族衆百騎持となる信玄の没後、
兄勝頼を助けて高遠城主となる。天正十年二月信長の甲州征伐のとき攻め落とされ戦死。


《ぬ》《ね》《の》

《は》

はちすか‐ころく【蜂須賀 小六】
大永6年(1526)天正14年(1586)
出生地:尾張海東郡蜂須賀村。正勝。彦右衛門尉。修理大夫(しゅりだいぶ)。
初め、美濃の斉藤道三に仕え、永禄年間より羽柴秀吉に従って美濃墨俣の築塁、越前近江、中国征伐と武功を重ね、四国征伐にも参加し、特に、高松城水攻め、賤ヶ岳の役、小牧の戦で活躍し、軍事・政治の双方で、信任が厚かった。
大阪にて没す。もと盗賊の首領であったとするのは誤りで、尾張の土豪の出であったという。

はちすか‐いえまさ【蜂須賀 家政】
永禄元年(1558)〜寛永15年(1638)
出生地:尾張海東郡蜂須賀村。父は小六正勝。小字は小六、初名は一茂。
天正3年以来、羽柴秀吉の麾下に属した。明智光秀との合戦、根来(ねごろ)一揆征伐、文禄・慶長の役に功あり、阿波国十七万三千石を与えられ徳島城主となった。関ヶ原の役には西軍に属したが出陣せず、子至鎮(よししげ)が東軍に属したので役後も本領を安堵される。致仕(ちし)後、蓬庵と号す。寛永十五年八十一歳で没。至鎮は大阪の陣の戦功で、淡路七万石を加増され、二十五万七千石の太守となったが元和六年、三十五歳の若さで父に先立って没した。

《ひ》

ひゃくたけ−ともかね【百武 賢兼】
????〜天正12(1584)
龍造寺四天王の一人。志摩守今山合戦など各地で活躍し、武勇は百人分に匹敵するといわれ、隆信から百武姓を賜る。有馬氏攻めで島原で隆信を守り討ち死にした。


ひらの‐ながやす【平野 長泰】
永禄2年(1559)〜寛永5年(1628)5月7日没
出生地:尾張海東郡津島。はじめ実名を長勝といった。権平、遠江守。
大和田原本城主。賤ヶ岳七本槍の一人。天正七年に秀吉に仕えるという。同十一年四月二十一日、賤ヶ岳の戦いで功を立て、六月五日にその感状を与えられ、ついで八月には近江・河内両国の内で三千石の知行を宛行われた。ついで翌十二年の小牧・長久手の戦いに従軍。その後の行動は明らかではないが、文禄四年八月に大和十市郡内に知行を加増され都合五千石を領し、田原本に住した。
 慶長三年三月十五日、豊臣の姓を与えられ従五位下遠江守に叙任。 なお、父の右京進長治は、公家で清三位と称せられた舟橋枝賢の舎弟(『兼見卿記』)である。
天正十年十日には播磨姫路城の留守居を務め、のち、大炊頭に命じられ十六年四月の後陽成天皇の聚楽第行幸の際には、天皇の行列に供奉する。
 

《ふ》

ふくしま‐まさのり【福島 正則】
永禄4年(1561)〜寛永元年(1624)7月13日没
出生地:尾張海東郡二ッ寺村。市松、左衛門大夫(さえもんたゆう)。
 正信の子として尾張に生まれる。桶屋のせがれ、とする説もある。
幼時より秀吉に仕え、賤ヶ岳の合戦では、「七本槍」よりも上位に相当する五千石の恩賞をうけた。九州征伐後、天正十五年九月に伊予湯月十一万三千余石。文禄四年七月には二十四万石をうけ、清洲城主。この間、武断派の旗頭として文治派の石田三成と確執を深めた。慶長二年七月に羽柴の氏をさずけられて侍従。関ヶ原の役では、東軍の先鋒部隊主力となって働き、備後・安芸四十九万八千二百石に加封されて広島城をおさめた。だが、豊臣家の滅びゆくさまと徳川家独裁に歯噛みするうち、元和五年六月、居城を無断で修築したため、武家諸法度にふれ、除封。翌月、信州川中島四万五千石を与えられた。寛永元年に病没。


《へ》
べしょ‐ながはる【別所 長治】
弘治2年(1556)〜天正8年(1580)
別所氏は赤松氏の一族で、東播磨の守護職。長治は三木城を再築した則治から五代目の城主。山陽道の入口を扼する要衝にあるため、天正六年から、毛利征伐の織田軍の羽柴秀吉の攻撃をうけた。長治は、本城と支城に七千の兵を配置して、毛利軍の支援をうけ抵抗した。秀吉も竹中半兵衛の病死などで、攻めあぐね一年五ヶ月たった天正八年やっと落城させた。長治は妻子と共に自刀した。
辞世の句は「今はただ恨みもあらじ諸人の命に代わる我が身と思えば」享年二十五歳であった。

べつぎ−あきつら【戸次 鑑連】・・・・・・たちばな−どうせつ【立花 道雪】


《ほ》
ほうじょう-つなしげ【北条 綱成】
永享4年(1515)〜天正15年(1587)
黄地八幡と恐れられる。上総介。綱成は父、今川家臣福島正成。正成が武田家の猛将・原虎胤に討ち取られた後、家臣に伴われて小田原に落ち延びる。時の北条氏当主は二代目・氏綱であったが、彼は綱成を援助し近習として用いる。 その後、氏綱は自分の「綱」という字と、父・正成の「成」を合わせて「綱成」と名乗らせ、自分の娘を嫁がせ北条一門に迎え入れる。 こうして綱成は、北条氏の外戚としてお家発展に深く寄与することになる。
 旗指物は、黄色の地に「八幡大菩薩」と書かれ、その姿を、人々は「地黄八幡」と呼んでその勇猛さを讃えたという。 後に、"日本三大夜襲"に数えられる河越合戦は、八万の軍勢をわずか八千の兵だけで退けるという奇跡的な勝利をもたらし、北条の関東制覇を大きく前進させる重大な勝利だった。やがて戦場から離れた綱成は、武蔵の要衝・玉縄城の城主となり、各地の大名と小田原を結ぶ折衝役となり、今度は外交面から北条を支えた。 氏康死後、家督を嫡男・氏繁に譲り出家。道感と号す。 戦場に、外交に、北条発展に捧げた生涯は、後世に"北条氏発展を支えた名臣"という名を残した。

 ほり-ひでまさ【堀 秀政】
天文22年(1553)〜天正18年(1590) 5月27日没
出生地:美濃厚見郡茜部。菊千代、久太郎(きゅうたろう)、左衛門督(さえもんのかみ)。
 信長の側近として仕え、永禄11年主君信長が、足利義昭を奉じて、上洛。本圀寺を仮御所としたが、その修理に際し、普請奉行を務めている。わずか16歳の時である。天正5年の雑賀攻め、同6年の有岡城攻め、同9年の伊賀攻めと軍を率いて戦いに加わる。江村専斎の『老人雑話』の中で、「堀左衛門(秀政)傑出の人なり」と表している。天正10年6月の本能寺の変勃発時には、備中高松城水攻めの秀吉陣中にあった。かくて秀吉とともに急遽上洛して山崎の戦いで逆臣明智光秀を討滅させた。
 ついで清洲会議では新しい織田家当主三法師の傳役とされた。次第に秀吉麾下となり、賤ヶ岳の戦いや、小牧長久手の戦いを経る頃には秀吉の信任を得る有力武将の一人となった。天正13年丹羽長重の後を受けて越前北庄城主となり「羽柴北庄侍従」と通称され、二十九万石余を領す。前田利家、長谷川秀一ともに「北国の要」を任され、秀吉も、やがては、奥州の抑えにと考えていたらしいが、天正18年小田原包囲の陣中に病死した。

ほりお−よしはる【堀尾 吉晴】
天文12年(1543)〜慶長16年(1611)6月17日没
出生地:尾張丹羽郡の供御所。吉直、毛(茂)助、帯刀先生(たちはきせんじょう)。
近江長浜時代からの股肱(ここう)の臣。吉久(準時)の子として尾張に生まれる。通称茂助。可晴とも書き、吉直・吉定ともいう。
 初め信長に仕えたが、やがて秀吉に臣従。石山合戦・中国平定・賎ヶ岳の合戦に功名をあげ天正十一年、若狭高浜一万七千石を得た。十三年には近江佐和山四万石を領し、九州鎮圧後、従五位下・帯刀先生に叙任、豊臣の姓をさずけられた。同十八年、小田原征伐ののち遠江浜松十二万石、ついで慶長三年には豊臣三中老の一人に任ぜられた。翌四年十月隠退、家督を嫡男忠氏に譲り、隠居料として別封で越前府中五万石をうけた。

ほんだ‐ただかつ【本多 忠勝】
天文17年(1548)〜慶長15年(1610)
三河国に生まれる。幼名を鍋之介といい、平八郎とも称す。
 姓は藤原氏。若年より家康に仕え、十三歳で大高の役に従い、永禄四年七月、鳥屋根城を攻める。元亀三年の一言坂(三方ヶ原)の戦いに、武田信玄をして(実は小杉右近)「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」といわしめた勇将。天正十八年、上総国大多喜城に入り、慶長六年、伊勢国桑名城に移る。このころより「徳川の四天王」と呼ばれ、井伊直政・榊原康政・酒井忠次と並び称された。慶長十五年十月十八日に桑名で没す。葬地は桑名浄土寺。

ほそかわ‐かつもと【細川 勝元】
永享2年(1430)〜文明5年(1473)
 文安二年、十六歳で室町幕府の管領職に任じられたのを最初に、三たび通算二十一年間、管領職にあった。禅を深く信じ、竜安寺・竜興寺を建立、法名を竜安寺宗宝という。文化人でもあった。畠山政長と義就の継嗣争いにからんで、政長派を支持、足利義視と義尚の継嗣争いに義視を支持し、西軍の総帥山名宗全と対立して東軍の総帥となり、将軍義政を奉じて、応仁の乱を戦った。戦乱は、京都を焦土と化して六年間つづき、文明五年、宗全についで勝元も病死し、一時小康状態となったが、地方へ移行、戦国乱世の誘因となった。

ほそかわ‐ゆうさい【細川 幽斎】
天文3年(1535)〜慶長15年(1610)
 幕臣三淵晴員(みつぶちはるかず)の子。細川元常の養子。名を藤孝。玄旨とも号した。初め室町十二代将軍義昭に仕え、ついで義昭を奉じて越前朝倉氏をたより、のち、明智光秀を介して信長のもとに至った。義昭・信長の確執が深まると主を見限って信長に属した。和歌に秀でた文道の人といわれるが、生来、遊泳術もたくみ。本能寺の変では、子忠興の舅の光秀から誘いをうけたが拒絶、家督を忠興に譲り、秀吉に近侍し、二位法印となり、別封四万石を得た。関ヶ原の役には東軍に属し、丹後田辺城に籠城。古今相伝の筥などを宮中に送った話は名高い。

ほそかわ‐ただおき【細川 忠興】
永禄6年(1563)〜正保2年(1645) 
藤孝〈幽斎)の子。通称与一郎、長岡越中守を称す。
丹後宮津十七万石の城主。関ヶ原の役に家康に属して上杉討伐に出陣中、大坂屋敷を石田方の軍に襲われ、正室玉(明智光秀の娘、受洗名ガラシャ)は、人質として入城を要求されたが、これを拒否して命を絶たせた。戦後、忠興は豊前に三十六万石を与えられて小倉城主に栄任、その子忠利のとき、肥後五十四万石の熊本城主になった。忠興は三斎と号し、「利休七哲」に加わる茶の湯の達人で、和歌・絵画・蹴鞠・有職故実に通じる文化人であった。茶の湯の奥義
を極めた茶書の著述がある。


戻る