戦国武傑列伝





《さ》
さいとう‐としみつ【斎藤 利三】
天文3年(1534)〜天正10年(1582)没
(内蔵助)明智光秀の家老。利賢の子。母は光秀の妹。はじめ斎藤義龍に仕え、ついで稲葉一鉄に属した。のち織田信長に仕え
て天正八年、光秀に仕え一万石を与えられ丹波に住む。本能寺の変、山崎の合戦に従い、敗戦後、近江堅田で捕らえられ斬られる。三代将軍家光の乳母春日局の父でもある。


さかい‐ただつぐ【酒井 忠次】
大永7年(1527)〜慶長元年(1596)没
 大永七年に忠親の次男として生まれた。小平次・小五郎と称す。
妻は家康の叔母碓井。「徳川四天王」の一。秀れた政治・軍事手腕と徳川縁戚のゆえをもって、重用された。永禄七年に今川氏の拠点吉田城を計略で無血開城させ、東三河の旗頭となり、石川数正と共に徳川の筆頭宿老。天正十年には信濃経略戦で采配をふるい、小牧の役後、同十四年に家康が上洛するとき随行、従四位下、左衛門督に叙任された。天正十六年、六十二歳で致仕して家督を家次に譲り、剃髪して一智と号した。慶長元年十月、京都桜井の隠居屋敷で没した。


さかきばら‐やすまさ【榊原 康政】
天文17年(1548)〜慶長11年(1606)
三河国上野に生まれる。 長政の次男。童名を亀。通称小平太。
永禄三年、桶狭間の合戦ののち家康に謁してから側近く仕えた。一向一揆鎮定戦に初陣、家康の諱をもらって康政を名のった。翌七年、三河吉田城攻めに旗本の先鋒を勤め、以後、常にこの役を果たし、「徳川四天王」の一。小牧の役には、秀吉を「野人の子、馬前の走卒」と罵って味方の士気を鼓舞した、という。秀吉もこの剛毅を愛し、天正十四年に従五以下・式部大輔に推した。家康の関東入国後、上野館林十万石を領した。これも秀吉の指示と伝わる


さくま‐もりまさ【佐久間 盛政】
天文23年(1554)〜天正11年(1583)
 尾張の土豪、佐久間盛次の長子。母は柴田家の姉。通称玄蕃允(げんばのすけ)。天正四年、石山本願寺に呼応して加賀一向一揆が織田信長の部将戸次(簗田〉広正を大聖寺城に攻めたため、急遽、盛政が、鎮将となって平定戦の指揮をとった。『鬼玄蕃』と猛将ぶりをうたわれる盛政は、一揆の本拠金沢御坊を陥れ、天正八年に加賀一国を領して、尾山(金沢)城に入った。賤ヶ岳の合戦では、柴田軍の先鋒となり、中川清秀の守る大岩山砦を抜いた。だが、功をあせって、進退の機を誤まり、秀吉の軍勢に急襲され、全軍壊走の因をつくった。
捕縛後は、大紋の小紬を着たまま京洛を引き廻され、十一年四月、山城槙島で斬られ、六条河原に梟された。


さっさ‐なりまさ【佐々 成政】
天文6年(1537)〜天正16年(1588)
 天文六年、尾張国春日郡比良の城主、佐々木伊豆守成宗(盛政)の子として生まれる。信長に仕えて、永禄五年、美濃に出陣以来、戦功めざましいものがある。永禄十年には黒母衣組筆頭となって活躍。天正三年、越前朝倉攻撃に勲功あり、府中三万三千余石を領治し、前田利家・不破光治とともに柴田勝家の与力大名として領国目付役。天正九年、上杉と戦い、越中を領して富山城主となる。賤ヶ岳の合戦・小牧の役と二度にわたり秀吉に対するが、天正十三年に降伏。九州熊本城に転封するも、領内一揆を鎮圧できなかった理由をもって、天正十六年、摂津尼崎に呼び寄せられ、切腹。享年五十一歳。


さたけ‐よししげ【佐竹 義重】
天文16年(1547)〜慶長17年(1612)
義昭の長男。太田城城主。佐竹氏は新羅三郎義光の後裔を唱える源氏の名門で、その家紋「扇に月丸」は、源頼朝が白旗の代わりにせよといってあたえたという伝えがある。また、関東管領上杉憲政が、かつて上杉姓と管領職とを譲ろうと持ちかけたことがあったが、義重の父は、佐竹の姓は捨てない、管領職だけなら引き受けようと答えた。
 後年義重が京へ上がって秀吉に謁した時、臣下の礼をとらずにほとんど対等のふるまいをしたが、秀吉は敢えて咎めなかった。家柄という点では、義重は秀吉を尊敬していなかった。ただ天下人としての秀吉の威勢を利用して、北関東を制圧しようとしていただけである。義重は十五歳で家督を継ぐと猛烈な勢いで、近隣の豪族を下し常陸一国を平定、下野国南部に勢力を伸長。上杉謙信、武田信玄と同盟を結び南は相模の小田原北条氏、北は陸奥の伊達氏と敵対。常陸・下野から陸奥の一部に及ぶ大版図を築き上げたのは、ほとんど義重一代の仕事だった。義重は黒糸縅の鎧に鹿の角をつけた兜をかぶり、黒鹿毛の馬に乗って自ら陣頭にたった。その勢いの凄まじさには、さしもの北条氏も辟易(へきえき)して鬼義重と謳われ、関東一円にとどろいた。天正十八年秀吉の小田原征伐のおり、当時隠居していた義重は嫡子の義宣を連れて直ちに参陣した。当時秀吉は関東の情況がよくつかめていなかったので、義重親子の情報はすこぶる役立った。義重はそれに乗じて、常陸・下野二国の支配権を得、五十四万石の支配権を認めさせた。翌年、義重親子は秀吉の墨付を振りかざして、江戸氏の拠る水戸城を攻略した。以後義宣は水戸城には入り、義重は太田城に住んだ。 


さたけ‐よしのぶ【佐竹 義宣】
永禄6年(1569)〜寛永10年(1633)
義重の子。常陸太田城に拠って北条・伊達氏に桔抗し、鬼将と称された義重から、天正十四年(十七年とする説もある)に家督を譲られた。同年四月、北条氏政の軍勢と下野壬生で戦い、十六年五月には須賀川に出陣して伊達軍と対峙した。小田原征伐のおりには、石田三成の勧めもあって天正十八年五月に秀吉のもとへ伺候。武州鉢形・忍城攻めなどに従ったのち、奥州征伐の宿所設営と会津先達を命ぜられた。同年八月、常陸・下野の内で二十一万六千七百五十八貫文の朱印状を得、常州の旗頭に任ぜられた。十二月には上洛して従四位下・侍従。この間、父義重は江戸重通を逐って水戸城を掌中におさめ、ついで常陸府中の大掾清幹を倒し、南方三十三舘とよばれた大掾一族を屠って領国を統一した。引退した父の活躍もあって、義宣は豊臣政権下の大名となり、水戸に府城を置き、文禄四年六月には、義重・重臣・与力分を併せて五十四万五千八百石の朱印状を与えられた。しかし、関ヶ原の役に動かず、観望反覆の罪に問われ、慶長七年五月、出羽秋田へ十八万石格で左遷された。


さなだ‐まさゆき【真田 昌幸】 
天文16年(1547)〜慶長16年(1611)
 源五郎。安房守。幸隆の三男。
 信州上田城主。武田信玄・勝頼の重臣。兄二人が長條の合戦で戦死したので、真田家を継いだ。信玄子飼いの武将で、はじめ武田一門の名跡を継ぎ武藤喜兵衛といった。武田滅亡後、所領のことから、家康と悶着を起こし、天正十三年、上田攻めに向かった七千の徳川軍を撃破し、小信玄といわれた。その後、豊臣秀吉に属し、慶長五年の関ヶ原の合戦には石田三成に与し、西上する徳川秀忠三万八千の軍をさえぎつて、合戦に参加させなかった。戦後、罪をとわれたが、徳川方についた長男信之の功とひきかえに許され、高野山へ追放。慶長十六年六月没。享年六十五歳。


さなだ‐ゆきむら【真田 幸村】
永禄4年(1567)〜元和元年(1615)
 名は信繁というのが正しい。左衛門佐。昌幸の次男。
上杉景勝の質になったのち、豊臣秀吉に仕え、従五位下・左衛門佐となる。大谷吉継の娘を娶り、父昌幸と行をともにする。慶長十九年、大坂に入城。冬の陣には外堀の脇に真田丸を作って防戦、大いに名をあげた。夏の陣を前にして徳川家康から十万石で招かれたが断わった。この夏の陣には家康の本陣に迫り、家康を走らせたが、ついに戦死した。「真田日本一の兵」といわれた。元和元年五月七日没、享年四十九歳。


さなだ‐のぶゆき【真田 信之】
永禄2年(1565)〜明暦8年(1658)
 昌幸の長男。幼名源三郎。伊豆守。天正十三年の神川合戦では、徳川の大軍を相手にまわし、父昌幸を助けて奮戦する。時に二十歳。後、弟が秀吉に出仕したのに対し、信之は家康に出仕する。関ヶ原の役では、昌幸、幸村と別れ、父弟の籠もる上田城攻めに従う。そして、その合戦後、父の遺領である上田(小県)三万八千石と加増三万石を与えられ、今までの沼田二万七千石に加えて、九万五千石の領主となった。元和八年に松代十万石へ移封となる。明暦四年九十三歳で没。


さなだ‐ゆきたか【真田 幸隆】
永正10年(1513)〜天正2年(1574)
 小太郎。弾正忠。一徳斎。
 北信の豪族、海野棟綱の子で、はじめて真田氏を称したという。異説もある。村上義清に属したが、中途から武田信玄に仕え、義清の軍を破った。信玄が落とせなかった義清方の戸石城を、天文二十年五月、一夜にして乗っ取り、城を与えられた。謀略にすぐれていた。信玄とともに剃髪して一徳斎と号した。天正二年五月病没。享年六十二歳。


《し》
しが−ちかつぐ【志賀 親次】
永禄9年(1566)〜????
親善、太郎、小左衛門尉、湖左衛門尉、ドン=パウロ、島津配下の新納忠元軍三万五千が包囲する豊後岡城を僅か千の兵で守り抜く。囲みを破って近隣の諸城を奪回し、秀吉から武勇を賞賛された。



しばた‐かついえ【柴田 勝家】
享禄3年(1530)〜天正11年(1583)
 始祖の義勝は斯波氏の支流で、越後国柴田城に拠って以来、家号にしたと伝えるが、孫の勝家は信長に仕えて名があった。享禄三年の生まれ、通称権六。初め、信長の弟信行の側近く仕え、一時は信長を廃して信行を織田の家督につけようと謀ったこともあるが、その後、恭順して信長の臣となる。元亀元年六月、近江長光寺城を守ったとき「瓶割り柴田」の威名を伝え、天正三年、信長の越前平定後に北ノ庄を居城として一国を領有した。本能寺の変後、清洲会議の主導権を秀吉に握られ、天正十一年、賤ヶ岳で秀吉と戦う。利なく北ノ庄に退き、四月二十三日、夫人お市の方と共に自刃。五十四歳。


しま‐さこん【島 左近】 
天文9年不詳(1540)〜慶長5年(1600)
 名を勝猛といい、清興・友之・昌仲・清胤とも伝わる。
 初め大和の筒井順慶に属し、ついで養子定次に仕えた。諌言をいれられなかったことから天正十三年に筒井家を退去し、豊臣秀長に仕えた。文禄三年、秀長の養子秀保が横死すると、人物を見込まれ、高禄をもって石田三成に招かれた。慶長五年の関ヶ原の役には、美濃杙瀬川で中村忠一の軍勢を破ったが、主力戦では石田軍の前衛となり、黒田・細川らの大軍に向かい、銃弾をうけて討死。 

しまづ‐よしひろ【島津 義弘】
天文4年(1535)〜元和5年(1619)
薩摩守護職島津貴久の次男として、天文四年に生まれる。初め忠平、又四郎と称し、入道して惟新と号す。永禄の頃より長兄義久とともに日向飫肥(おび)の伊東氏攻撃をはじめ、九州一円に兵を動かす。天正十五年、一族とともに秀吉の軍と戦ったが、抗し得ず降伏。慶長の役では渡海して奮戦、明軍に石曼子と呼ばれて恐れられた。慶長五年、兄義久に家督を譲られ、鹿児島城主となる。関ヶ原の役では西軍に属し、伏見城の攻撃に参加。西軍の敗北が決定的になると、関ヶ原の合戦場の中央突破を敢行して帰国した。元和五年まで生き、同年七月二十一日、大隅加治席木で死去。八十五歳。


しまづ‐よしひさ【島津 義久】
天文4年(1535)〜慶長16年(1611)
貴久の子、義弘の兄。修理大夫。
大友宗麟・龍造寺隆信と鎮西の覇をきそって鼎立。天正六年十一月、日向耳川で宗麟を破り、十二年三月には島原の陣で隆信を屠り、九州をほぼ掌中のものとした。だが十五年に秀吉の征伐をうけ、圧倒的兵力には抗し得ず、五月に降伏、娘亀寿を人質として差出し、入道して竜伯。薩摩・大隅および日向の一部を安堵された。その後、家督を義弘に譲った。関ヶ原敗戦ののち、義弘に代わって上京、家康へ謝罪している。


しまづ‐いえひさ【島津 家久】
天正4年(1576)〜寛永15年(1638)
義弘の子。幼名を又八郎。初め忠恒。
幼児から武を好み、朝鮮の役に渡海し、昌原での虎狩り、泗川城攻めなど勇名をはせた。慶長四年に帰国、従四位下・左少将。同年三月、反抗する重臣伊集院忠棟を京都伏見の館で誅し、その後、本国へ帰って忠棟一族の掃討にあたった。このため、関ヶ原の役には参陣せず、戦後、義弘から家督を譲られた。
慶長十一年九月、家康に謁し、松平の家号を許され、諱を与えられて家久と名乗る。同十四年に流球へ出兵、尚寧王を降した。


しみず‐むねはる【清水 宗治】
天文6年(1537)〜天正10年(1582)没
 字は長左衝門。
備中清水の城主だったが、永禄八年、同国高松城の後継争いに乗じて長谷川掃部を殺し、高松城主となって小早川隆景に属した。天正八年、中国経略中の秀吉より備中一国を与えるゆえ内応せよとの誘いをうけたが、これを断り、同十年、秀吉の軍によって居城を水攻めにされた。同年六月四日、本能寺の変報を得た秀吉が、にわかに毛利氏との和睦策に出たため、宗治は和睦の条件として切腹することになり、高松城内で自刃した。四十六歳。

しろい−しげふさ【城井 鎮房】
天文5年(1536)〜天正16年(1588)
興房、民部少輔。豊前の豪族。宇都宮氏十六代。宇都宮から城井へ改姓。大内、大友、島津と主を変え、所領を存続させる。秀吉に降るが、伊予への転封を拒んで謀反し、黒田長政に謀殺される。



《す》
すえ‐はるたか【陶 晴賢】
大永元年(1521)〜弘治3年(1555)
 尾張守興房の次男。幼名五郎。
大内義隆の筆頭家老として天文九年以来、しばしば戦功を挙げたが、次第に叛意を強め、同二十年、義隆を襲って自殺させた。翌年、大友宗麟の弟晴英を迎えて大内氏の後前にすえる。同一十三年、石見の吉見正頼を授けた毛利元就・吉川元春・小早川隆景の兵の攻撃をうけ、弘治元年三月、安芸厳島においてこれを迎え討たんとしたが、元就の奇襲にあって大敗、下大江にて自殺し果てた。

《せ》
せんごく−ひでひさ【仙石 秀久】
 

《そ》
そごう‐かずなが【十河 一存】
享禄3年(1530)〜永禄2年(1559)
三好修理大夫長慶の弟。十河景滋に養われ十河氏を称し、讃岐の十河城に居し、又四郎、左衛門尉、民部大輔、讃岐守と称し、また初名を長正、之虎などといった。相貌すこぶる魁偉(かいい)且つ武名に勝れていたので、世に夜叉十河といわれた。天文元年秋、寒川元政と長尾に戦い、大いにこれを破ったが、やがて細川晴元の仲裁によってこれに和した。同十八年六月、兄三好長慶勧めに従って晴元を三重城に攻め、一挙にしてこれをおとしいれんとしたが 、晴元との旧知を懐い、その死を見るに忍びず、淀川を渡り江口に転戦した。永禄二年紀州根来の僧徒と戦って利あらず、同年に瘡を患い、松永久秀と共に摂州有馬の温泉に浴したが、五月一日、久秀の制止するのを聴かず、葦毛の馬に乗って湯山権現に参詣し、落馬して死んだ。湯山権現は葦毛の馬を咎め給うという制禁を破った祟りであったと伝えている。一説には、これより先、兄長慶老いて、その子義興は器量人に勝れたが、重臣松永久秀らが実権を握り、義興を謀殺し、一存の子義継を三好家の嗣に迎えた。それがために長慶は哀婉して死したので、一存は己が無力にして遂にかかる結果を招いたと故意に落馬したともいう。


そごう‐ながやす【十河 存保】
 存保の子 幼くして放浪生活をし、大阪夏の陣において尼崎で戦死

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