戦国武傑列伝


《た》
たかはし−じょううん【高橋 紹運】
天文17年(1548)〜天正15年(1587)
大友氏の一族、吉弘鎮理の次子。名は鎮種、主膳正と称す。
吉弘家を出て高橋家をつぎ、筑前岩屋城に在って大友氏に忠誠を尽し、龍造寺氏や秋月氏と戦った。秀吉の九州征伐に先だつ天正十三年、薩摩島津勢が大挙して岩屋城を囲んだが、紹運は寡兵をもってよく守り、降伏勧告にも応じなかった。しかし、翌十四年七月、島津勢は大攻勢に出、ついに同月二十七日、残余の将兵五十余名とともに城内で自刃した。三十九歳。


たきがわ‐かずます【滝川 一益
大永5年(1525)〜天正14年(1586)
 近江甲賀郡滝城主。池田恒興の従弟。河内で叔父高安氏を殺した罪で城主を追われ、放浪ののち、柴田勝家の世話で信長に仕えた。通称彦右衛門。鉄砲の名手で戦争のたびに先鋒をつとめ、「引くも一益!攻めるも一益!」と讃えられた。武功をたてた。次第に登用されて伊予守を称し、左近将監(さこんのしょうげん)となった。天正二年、長島城主と蟹江城主を兼ね、同十年、関東管領代として上州厩橋城主となったが「自分の欲しかったのは国ではなく、珠光小茄子だ。それにこんな遠國に封じられては、もう都で茶会を楽しめない、まるで地獄のようだ」と、嘆き悲しんだ。信長の死後、三男信孝を助けて柴田勝家とともに秀吉と戦ったが、敗れて降伏し、近江の南部で五千石を給せらる。小牧・長久手で秀吉の下で戦い、敗れて出家し、不遇のうちに越前で病死。


たけなか‐しげはる【竹中 重治】
天文13年(1544)〜天正7年(1579)
 天文十三年、美濃国に生まれる。通称の半兵衛の名で広く知られる。父の遠江守重元は、斎藤竜興に仕えていた。重治も初め斎藤氏に属していたが、その滅亡後は織田信長に従い、さらに豊臣(羽柴)秀吉に仕えた。ここで謀将として知られ、元亀元年の浅井氏攻撃、横山城の防戦、長篠の合戦などで軍功をあげた。しかし,天正七年、秀吉の播磨三木陣中で病死した。三十六歳。このとき、秀吉が重治を惜しんで深く嘆いたという話は有名である。法名は深竜水徹。七歳の子重門は、秀吉に撫育された。


たけだ−しんげん【武田 信玄】
大永元年(1521)〜天正元年(1573)
 晴信。信玄は法名。大膳大夫信濃守。
信虎の長男で甲斐の守護大名。天文五年に信濃佐久に初陣。同十年、父信虎を験河に追って家を継いだ。同十一年、諏訪頼重を攻めて諏訪地方を併せ、つづいて村上義清・小笠原長時を追い、木曾義康を降服させて信濃の大半を領有、境を接する上杉謙信と抗争した。永禄四年の川中島の合戦はもっとも有名である。やがて、西上野・験河を合併した。信玄は分国法をつくり、治山治水を行ない、産業を開発する一方、甲州流の集団軍法を創始、強大な騎馬軍団をも編成した。天下掌握に望みをかけ、その外交作戦で上杉謙信を越後に釘づけにし、織田信長包囲網を完成したうえで、元亀三年、三万の兵をひきいて上洛の途についた。途中、徳川家康の兵を三方ヶ原に破ったが、病いを発し、翌天正元年四月十二日、雄図むなしく信州駒場で死去した。享年五十三歳。信玄の領地は六方国にまたがり、越中・飛騨・武蔵なども、彼の軍事的与国であった。


たけだ‐よしのぶ【武田 義信】
天文4年(1535)〜永禄10年(1567)没 
天文四年生まれ。今川氏真の婿。幼名は太郎、信行ともいった。父は武田大膳大夫晴信(信玄)である。智勇ともにすぐれており、信玄の後継者として嘱望され、永禄四年、信州川中島の合戦には奮戦して広く知られた。しかし、父の駿河進出に対し、妻が今川氏真の娘であったことから反対し、父子の間に対立が生じた(信玄・義信の対立を単に氏真の娘をめぐる問題ばかりでなく、時期尚早とするむきもある)。このため、父信玄の犠牲となって、永禄八年九月、幽囚され、同十年十月六月、幽室で自害。夫人は駿河に帰された。


たけだ‐かつより【武田 勝頼】
天文15年(1546)〜天正10年(1582)
四郎。信玄の四男。母は諏訪頼重の娘。剛勇として知られる。天正元年、家を継ぎ、徳川家康の属城高天神城を落とし、また東美濃の織田信長の諸城を攻略、一時、信玄在世中よりも勢威を張った。天正三年五月、勢力拡張のため三河に討って出、家康・信長の連合軍と戦い、鉄砲のため大敗し、父信玄薫陶(くんとう)の将士の多くを失った。頽勢を挽回しようと上杉謙信の後を継いだ景勝に妹を嫁がせ、また、じぶんも北条氏政の妹を娶ったが成らなかった。天正九年、高天神城が家康に取り返され、翌十年、木曾義昌が背くにおよび、武田王国も転落の歩調を早めた。信長は、十数万にのぼる甲州追討軍を編成、信濃から侵入した。かつて精強をうたわれた甲州軍は四散し、勝頼は防ぐすべもなく、三月十一日、甲州田野で自刃した。三十七歳。この前後に一族もほとんど滅亡した。

だて‐まさむね【伊達 政宗】
永禄10年(1567)〜寛永13年(1636)
 出羽米沢城主伊達輝宗の長男。幼名梵天。天正二年に十八歳で家督を譲られてのち、奥羽の山奥に戞々と蹄の音も高らかに、「独眼竜」の武名をひびかせる。
天正十三年三月、二本松義雄の謀計にかかって輝宗が拉致されると、これを追撃して義雄以下を討ったが、同時に父も殺された。同年十月、安達郡人取橋で蘆名・佐竹・岩城氏らの連合軍を破り、十七年六月には、会津黒川城主蘆名義広を耶麻郡摺上原で一蹴、黒川を居城とした。十八年六月、小田原征伐に出陣したが秀吉から遅参を責められ、箱根底倉に蟄居となり、その後、会津・岩瀬・安積都を没収、信夫・伊達・出羽置賜その他を安堵された。同月九日、石垣山で秀吉に謁見をゆるされたときは、水引で髪を一束に結い、死装束で臨んだと伝わる。ついで会津から米沢へ居城を移し、十一月には葛西・大崎一揆の鎮定に出馬。この騒乱を、蔭で策動したとの噂がながれたため、天正十九年閏正月、尾張清洲にいた秀吉のもとへ伺候して陳弁につとめた。九戸の乱後、同年九月には旧領に代えて桃生・牡鹿等の旧大崎・葛西領に移封となり、米沢から陸奥玉造郡岩出山に治府を移して五十八万余石。関ヶ原の役では、最上・南部と軍をあわせて翌年三月まで上杉景勝勢と戦い、戦後二万石を加封された。慶長六年に仙台城と城下町の築造にとりかかり、以後、
領内統治と産業開発につとめ十八年九月には、支倉常長をローマヘ派遣した。寛永三年に従三位・権中納言。同十一年、六十二万石となり、十三年五月に江戸藩邸で没した。七十歳。

たなか−としまさ【田中 吉政】
天文17年(1548)〜慶長14年(1609)2月18日没。
出生地:近江高島郡田中。久兵衛尉、兵部大輔(ひょうぶたいふ)、筑後守。
若党として宮部継潤に仕え、処世の才を認められ、千五百石を与えられた。秀吉の命令で秀次の家老となり、家康の抑えとして、五万七千石の岡崎城主に栄進。秀次を諫争したというので十万石となる。
関ヶ原の役では、徳川方に加担。佐和山城攻め、潜伏中の三成を捕らえた功績で、三十二万五千石筑後柳川城主にまで出世した。慶長十四年、江戸へ上る途中、伏見の宿で急死した。


たちばなむねしげ【立花 宗茂】
永禄12年(1569)〜寛永14年(1642)11月25日没
幼名 千熊丸 統虎
筑前岩屋城に生まれる。十年出生の説もある。父は高橋紹運。立花鑑連(あきつら)(道雪)が幼少のおりから将来の大器と注目し一人娘F千代の婿にと望まれ後を継ぐ。天正十四年、立花城を島津氏に攻められたが、寡勢よく守り翌年の秀吉の九州征伐後、羽柴姓を与えられ、筑後柳川十三万石に封ぜられる。
 文禄の役では小早川隆景らと六番隊を成し、碧蹄館の戦いなどに奮戦、慶長の再征でも蔚山城救出に活躍した。関ヶ原の役では三成に味方し義を通した。伏見城、大津城を攻め、西軍大敗の後は、居城に籠って鍋島直茂、加藤清正らと戦ったが、遂に降伏、領地を没収されたが旗本から、奥州棚倉一万石に、そして大阪の陣の戦功ににより元和六年旧領柳川十万九千石を回復した。寛永十四年に致士したが、同年、島原の乱が起こるや子の忠成とともに有馬城を攻略した。その年江戸にて没。享年七十四歳。茶の湯や能への造詣も深かった。まさに虚仮の一心の生涯であった。


たちばな−どうせつ【立花 道雪】べつぎ−あきつら【戸次 鑑連】
永正10年(1513)〜天正13年 享年七十三歳
豊後大野郡鎧嶽城の藪河原館に生まれる。大友氏一族。
幼名八幡丸。孫次郎。伯耆守、紀伊入道、丹後入道、麟白軒。
戸次親家の子として生まれ
大友宗麟の補佐役。盟友高橋紹運との友情と主家に対する忠誠は二人の死後も大友家を支え続けた


《ち》
ちょうそかべ‐もとちか【長宗我部 元親】
天文8年(1539)〜慶長4年(1599)
 天文八年、土佐一条家の臣宮内少輔。国親の子に生まれる。幼名弥三郎。、永禄三年、父没後、家をつぎ、本山茂辰・吉良駿河・安芸国虎らを攻め、天正二年には主の一条兼定を豊後に追放、土佐一国を平定した。以後、数年の間に四国全域を統一し、信長の四国経略に対抗した。しかし、天正十三年、秀吉に攻められて降伏、土佐一国九万八千石を安堵され、浦戸城に居城した。同十四年、島津義久に攻められた大友義統の救援を秀吉に命ぜられ、豊後に渡ったが、戸次川に敗れ、嫡男信親を失った。
慶長元年、漂着したイスパニア船サン=フェリペ号の財貨をう。同四年五月十九日、伏見で没した。六十一歳。元親は武略家であると同時に、秀れた民政家でもあり、「元親百箇条」の法規を遺した。


ちょうそかべ‐のぶちか【長宗我部 信親】
永禄8年(1565)〜天正14年(1586)
 元親の長男。初名弥三郎。天正三年冬、阿波侵攻を図る元親が、出兵の了解をもとめる外交上、明智光秀を介して信長に弥三郎の烏帽子親となることを依頼、諱をもらって信親。秀吉の四囲平定を経て、天正十四年、九州征伐の先遣隊として出陣。十二月、元親・仙石秀久らと豊後鶴ヶ城の救援に向かい、戸次川畔で島津家久と合戦。だが、渡河戦に大敗を喫して陣をくずされ、信長から贈られた左文字の大刀をふりかざしつつ敵勢に斬り入り、討死をとげた。


ちょうそかべ‐もりちか【長宗我部 盛親】
天正3年(1575)〜元和元年(1615)
 元親の四男。幼名千熊丸。宮内少輔。長兄信親なきあと、親和・親忠両兄をしのいで、父の愛を独占し、信親の娘を娶って天正十六年、後嗣となった。この時、親和は悶死(もんし)、親忠は幽閉されたという。慶長四年五月、元親の死で封をつぎ、土佐浦戸城主。翌年、関ヶ原の決戦では南宮山に陣したが、小早川軍の裏切りに遭って壊走、十月に所領を没収された。
のち幽夢と号して京都に浪居。十九年十月、秀頼の招きで大坂へ入城、大坂城七将星の一人。夏の陣で藤堂高虎を破った。落城後、逃走を試みたが捕らえられ、三条河原で斬首。
 

《つ》
つつい‐じゅんけい【筒井 順慶】
天文18年(1549)〜天正12年(1584)
大和郡山城主順昭の子。筒井家は興福寺の官符衆徒すなわち僧兵の隊長格の家柄で披も十七歳で得度し、陽舜房順慶と名のった。松永久秀に大和を制圧されたが、明智光秀の援助で久秀失脚後、信長から大和を与えられた。本能寺の変後、かねて配置してあった伊賀衆により、いち早く情報を得た順慶は、光秀に誘われたが、郡山城にあって動かず、家臣を洞ヶ峠に派遣して情勢を観望させた。山崎の合戦後、井戸茶碗の秘宝を秀吉に贈って遅参を詫び、部下となった。謡曲・茶の湯にすぐれ、教養は高かった。「洞ヶ峠」は、今も日和見の代名詞だが誤伝。

《て》

《と》
とうどう‐たかとら【藤堂 高虎】
弘治2年(1556)〜寛永7年(1630)
 弘治二年生まれ。伊勢安濃津領主。幼名は与吉。近江犬上郡藤堂村の出身であることから藤堂を称す。はじめ浅井長政・つぎに織田信澄、つづいて羽柴秀長・秀保に仕えた。文禄三年に秀保が横死したのち秀吉に召し出され、伊予宇和郡七万石を与えられた。朝鮮の役では水軍を指揮し、その後、慶長五年、関ヶ原の役では徳川方に属し、伊予半国・備中の内など、次々に加増された。同十三年、伊勢安濃津と、伊賀全国を与えられ、さらに伊勢鈴鹿・安芸・田丸などを加封され、三十二万三千余石を領した。


とくがわ‐いえやす【徳川 家康】
天文11年(1542)〜元和2年(1616)
 天文十一年、三河岡崎城に生まれる。幼名は竹千代、次郎三郎・蔵人佐ともいい、初名元信、元康、家康と改めた (院号は安国院)。父は岡崎城主松平広忠、母は三河国刈谷城主水野忠政の娘(於大)。広忠は織田信秀と対し、今川義元に助けを請う。このため、四歳の家康が人質として送られた。永禄三年、桶狭間の合戦に今川氏が敗れると独立して、三河を統一、信長と結んで一向一揆鎮定、姉川の戦勝、武田氏攻略を経て、秀吉没後の関ヶ原の役に大勝。慶長八年に江戸幕府を開き、十五代二百六十五の基礎を確立。

とくがわ‐のぶやす【徳川 信康】
永禄2年(1559)〜天正7年(1579)
 永禄二年三月、駿府城に生まれる。竹千代・三郎(のちに岡崎城に移って、岡崎三郎)と呼ばれた。
父は徳川家康(その長男で、秀忠の兄)、母は関口氏(築山殿)。家康の独立によって今川氏真の人質となったが、捕虜交換によって岡崎に帰った。ここで織田信長の娘を娶る。父にまさる剛勇の誉れが高かった。元亀元年、家康が浜松城に移ったあと、岡崎城主となる。しかし、関口氏が家康と不和のことと、信長から信康が武田勝頼に通じていると迫られ、この嫌疑に抗しきれず、天正七年九月十五日、遠江二俣城で自害。享年二十一歳。


とくがわ‐よしなお【徳川 義直】
慶長5年(1600)〜慶安3年(1650)
身地大阪、御三家  初代 尾張徳川家 藩主
慶長5年お亀の方との間に生まれる。幼名は千代君のちに五郎太と改める。関ヶ原の戦勝の後に産まれた子であることから家康にかわいがられた。
慶長八年四歳の義直は甲斐二十五万石を与えられる。慶長十一年七歳の義直は従四位下・右兵衛督に叙任される。
その後家康が没する元和二年までの九年間家康と共に駿府城で暮らす。
この間四男 松平忠吉 が没したため尾張一国を譲り受け、居城も清洲から新たに築城した 名古屋 にかえ、忠吉の家臣の大部分も義直の家臣として奉公する。
家康の死後、名古屋に移り元和三年権中納言に昇進六十一万石に加増、寛永三年従二位権大納言に昇進する。
後年 三代将軍家光 との対立があった義直は江戸藩邸にて五十一歳の生涯を閉じる。


とくがわ‐よりのぶ【徳川 頼宣】
慶長7年(1602)〜寛文11年(1671)
出身地伏見、御三家  初代 紀伊徳川家 藩主。慶長七年お万の方との間に生まれる。幼名は長福丸。
九男 義直 と同じく関ヶ原の戦勝の後に産まれた子であることから家康にかわいがられた。慶長八年二歳の頼宣は五男信吉の旧領地常陸水戸十五万石にさらに十万石を加えた二十五万石を与えられる。慶長十一年五歳の頼宣は従四位下・常陸介に叙任される。慶長十四年二十五万石の加増で駿河・遠江・東三河で五十万石を与えられる。その後家康が没する元和二年までの九年間家康と共に 駿府城 で暮らす。家康の死後、駿府城主となる。
 元和三年権中納言に昇進、同五年紀伊和歌山五十五万五千石に移封、寛永三年従二位権大納言に昇進する。
慶安三年(1650年)から万治二年(1659)までの十年間、幕府から危険視されていた頼宣は江戸にて四代将軍家綱の補佐として滞在する。その後和歌山城西の丸にて隠居生活の後七十歳の生涯を閉じる
由井正雪の慶安の変の黒幕と囁かげた。


とくがわ‐よりふさ【徳川 頼房】
慶長8年(1603)〜寛文元年(1661)
出身地伏見、御三家初代水戸徳川家藩主。慶長八年お万の方との間に生まれる。幼名は鶴千代。
慶長十年三歳の時、常陸下妻十万石が与えられる。慶長十四年二十五万石の加増で駿河・遠江・東三河で五十万石を与えられた頼宣に代わり十五万石の加増で水戸二十五万石を与えられる。その後家康が没する元和二年までの九年間家康と共に駿府城で暮らす。慶長十六年頼房は元服し従四位下権少将に叙任される。家康の死後、元和五年に水戸に移り翌六年に正四位下権中将兼参議に昇進、同八年に三万石を加増、28万石を領する。寛永元年に家中条目を制定、同三年従三位権中納言に昇進する。
その後、長男頼重を高松藩主に、三男の光圀を後継者とした。


とよとみ‐ひでよし【豊臣 秀吉】
 天文六年(1537)〜慶長三年(1598)
 天文五年(一月一日誕生、このため日吉丸と命名したとする説もある)、尾張愛知郡中村(銀杏村とも)に生まれる。木下藤吉郎・羽柴筑前守ともいった。父は弥右衛門、母は天瑞院(名はなか、のち大政所)である。わが国の代表的英雄で空前絶後の出世者。年少のとき今川の将松下嘉兵衛之綱に、数年後、織田信長に仕える。才能と戦功のゆえに重用され、墨俣城構築から山崎の合戦を経て、信長の後継者となる。天下統一を達成し、朝鮮出兵中の慶長三年八月十八日伏見城で没した。六十三歳。農国神社(大明神)に祀る。


とよとみ‐ひでつぐ【豊臣 秀次】
永禄11年(1568)〜文禄四年(1595)
 三好吉房の子。母は秀吉の姉日秀。通称孫七郎。初名信吉。初め三好康長の養子となり、天正十年に紀州討伐に出陣。その後康長のもとを去って秀吉に養われ、賤ヶ岳・小牧の戦いを経て天正十八年、小田原の陣後に織田信雄の旧領尾張・北伊勢を与えられ、翌年六月の奥州平定戦の総大将。同年、秀吉の長子鶴松の死後、養子に入り、十二月には左大臣・関白。だが秀頼の誕生で疎(うと)んじられ、自棄的な乱行も崇って文禄四年七月に高野出へ追放、自刃を命ぜられた。妻子・側妾ら三十余名も三条河原で悉く斬られている。殺生関白


とよとみ‐ひでより【豊臣 秀頼】
文禄2年(1593)〜元和元年(1615)
 秀吉の次男。母は淀殿浅井氏。幼名お拾。秀吉の晩年に生まれ、天下人の愛情を一身にあつめた。慶長三年四月に従一位・権中納言。父は愛し児の行く末を案じ、家康・利家ら五大老から誓紙を取り、将来をたのんだ。だが、関ヶ原の役で秀頼を擁立する西軍が敗れたため、摂津・河内・和泉六十五万七千余石の一大名に転落。同八年に家康の孫千姫を娶り内大臣、同十年右大臣に進むが、関東と手切れとなり、元和元年五月に大坂城を囲まれ、自刃。


とよとみ‐ひでなが【豊臣 秀長】
天文十年(1541)〜天正19年(1591)
 秀吉の異父弟。初名を長寿。通称小一郎。
兄を補佐して活躍し、肉親の縁にうすい秀吉から大いに期待された。天正五年に但馬竹田城主となり、
同八年、出石城を治めた。その後、賤ヶ岳の合戦、紀州根来・雑賀討伐、四国平定戦などに参陣し、天正十三年閏八月には大和郡山城に入り、大和・紀伊・和泉三国と伊賀の一郡を領した。同年十月に参議・従三位。九州の役には一万五千人を引率して出動し、終わると中納言を経て権大納言に昇り、世に大和大納言という。小田原の役には船手で出軍。十九年一月、惜しまれながら病没。養子秀保は、文禄三年四月に吉野川で溺死している。

とりい‐もとただ【鳥居 元忠】
天文8年(1539)〜慶長5年(1600)
 忠吉の子。通称彦右衛門尉。
 父は、松平清康・広忠に仕え、天文十二年に安祥城を陥れて織田信広をとらえ、尾張熱田に人質となっていた竹千代(家康)の奪還に成功した武辺者。元忠も十三歳のとき、駿府へ赴いて人質時代の家康に仕えた。その後、大高城兵糧入れ、三方ヶ原をはじめ数々の合戦に武功をあらわし、天正三年の諏訪原城攻めでは銃丸に中って、左脚が不自由になった。天正十八年、家康の関東移封後は下総矢作四万石。慶長五年、関ヶ原の緒戦に伏見城守将となり、石田三成の降伏勧告を拒絶。八月一日、討死をとげた。

とりい‐ただまさ【鳥居 忠政】
永禄9年(1566)〜寛永5年(1628)
 元忠の長子。通称新太郎。
父と共に家康に仕え、長久手の陣で功をあげた。父は無位・無官であったが、忠政は従五位下・左京亮に叙任している。
慶長七年、父の遺功もあって、下総矢作四万石から陸奥磐城平十万石に加増転封。大坂の陣に際しては、江戸城留守居役を勤めた。元和八年に出羽山形城主、その後、加封を重ねて、寛永三年には二十二万石。同五年九月五日、六十三歳で没す。


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