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ブルボン朝(フランス)
1589年アンリー三世の死ヴァロワ朝の終焉し、王位を継承した新国王アンリー四世は国民の大半を占める旧教徒勢力は、新教徒との王を認めようとはしなかった。
 アンリーは宗教戦争を終わらせるため、涙を飲んで旧教への改宗を決意した。
ついにパリは94年3月22日、ブルボン家に門戸を開き、約30年にわたるユグノー戦争は終わり、98年にナントの勅令で旧教をフランスの国教とし、また、新教徒にもある条件の下で信仰の自由と国民の権利を認めたのである。弱体化した王権の再興に努め、シェリ公の補佐を得て疲弊した国庫を再建。「耕作と放畜がフランスの双の乳房」をモットーに農業、商工業の振興、カナダ植民地建設など国力の回復に努力した。1610年対イスパニア・神聖ローマ帝国戦争の準備中を始めたことを機に旧教徒の反感が再燃狂信的なカトリック教徒ラヴァイヤックの刃に倒れた。
 アンリー四世の後を襲ったルイ十三世は摂政后のマリー・ド・メディチを退け、実権を握り1624年リシュリュー司教を登用。彼は若干39歳で宰相の地位につき、王権と王国の強化を努めた。
 しかし、依然、国外にはハプスブルク家がフランスを脅かしており、リシュリュー は1618年ドイツに起こった三十年戦争に干渉して、ハプスブルク家の弱体化を図ろうとした。
ドイツ国内の新教徒を援助し、機に乗じてドイツ侵入を企てるデンマーク王や、スウェーデン王にも資金を援助した。そして34年スウェーデン軍かドイツ皇帝軍に決定的敗北を帰すると、ついに自国軍を総動員してドイツ・スペインに宣戦を布告したのである。
 リシェリューは、内政上でも王権確立に努めた。行政・司法・警察・徴税に従来の地方官を遥かに凌ぐ権限を持つ地方総監を派遣し、さらに商工業・貿易・植民を保護したため、植民地はアンティーユ諸島、マタガスカル島、セネガル方面までに広がった。リシュリュー
 リシェリューの唯一の気がかりは、いまだ王に世継ぎが生まれないことだった。ルイ十三世はハプスブルク家から迎えた美貌の王妃アンヌ・ドートリッシュを嫌い、宮廷の貴婦人たちとプラトニックな友情を温めていたのだ。しかしある晩、寵姫との密会の帰りが遅くなり、王は仕方なく王妃が暮らす宮殿に泊まった。この夜、成婚後二十四年にして後のルイ十四世が宿されたという。そして38年9月、ようやく待望の王子誕生となる。
 1642年11月、ついに宰相リシェリューに死が訪れた。後を追うようにルイ十三世が五か月後に死去すると、わずか五歳のルイ十四世が即位した。摂政后アンヌを退けて実権を握るのは、リシェリューの後を継いで宰相の地位についた枢機卿マザランである。
 しかしその政治は、1648年にフロンドの乱を招くことになる。王権の発展に抵抗しようとする旧来貴族の反乱に、都市のブルジョワの反乱や農民一揆が重なった。同年8月にパリでバリケード騒ぎが起こり、王は母や宰相とともにパリ郊外サン・ジェルマン・アンレに逃れねばならなかった。その後も貴族らの反乱が続き、ようやく国王側が勝利を決定的にしたのは四年後の1652年秋のことである。 
 1660年に結ばれたピレネー条約によってスペインはフランスの領土拡大を許し、かつての超大国スペインも今やフランスの前に権威を失い、フランスはヨーロッパ一の強大国となった。
王権への一切の反抗を許さぬ絶対君主になろうと決意したルイ十四世は、62年にマザランが死ぬと自ら親政をとることを宣言した。今や新教徒も政治力を失い、地方貴族も王権に依存し、ハプスブルク家も勢威を失い、内外に王権に抗するものはなくなった。
「朕は国家なり」という、フランス絶対王政の最盛期をしのぶにふさわしい言葉がある。今や絶対君主ルイ十四世は、太陽王としてその大御世に君臨した。
それは商工業ブルジョワの社会進出の時でもあり、大商人、銀行家、医師、法律家などが、王国の経済を動かし、さらに売官制度により行政官や司法官に成りあがって王国の統治にあずかった。
 宮廷がパリ南西一七`のヴェルサイユに移されたのも、このころである。ルイ十三世の時代からここにあった離宮を、ルイ十四世は改造して豪壮な宮殿への工事を開始し、同時に当時の名実術家を総動員して、大御世にふさわしい庭園と造形芸術の粋を集めさせた。
 1665年、財務総監に任命されたコルベールは、財政・経済・土木・植民政策に辣腕をふるった。専らフランスを富まし、王の財政を豊かにするのを目的に、彼は輸出入を調整し、商工業を保護育成し、外国から熟練した技術者を招いて数々の王立工場を興した。
 植民活動に本腰を入れた結果、北アメリカやアフリカにフランス植民地が形成され、北米ではミシシッピ河流域にルイ大王の名をとってルイジアナが開発された。中米アンティーユ諸島ではタバコや綿の栽培で過酷な奴隷労働が行なわれ、ナントやボルドーの奴隷商人や貿易商は巨富を蓄えた。海外発展に必要な海軍を育成したのも、コルベールである。
 こうした達成された富国強兵を背景に、ルイ十四世はあいつぐ戦争に栄光を求めた。ネーデルランド戦争、オランダ戦争、ファルツ戦争、スペイン継承戦争等々。新教国で商業貿易上の強敵でもあるオランダに勝利を得た1678年ごろから10年ほどのあいだ、まさに太陽王は西欧に君臨するかの観があった。
暗愚な王ルイ16世
 1715年9月2日、七十七歳でルイ十四世が世を去ると、五歳の曾孫がルイ十五世として即位した。ルイ十五世は政治に興味を抱かず、「朝十一時に起きて、なすこともなく日々を過ごす」毎日で、狩猟と女以外に興味を示さなかった。
 儀式ばったヴェルサイユにかわり、自由で粋なパリ好みが登場するにつれ、美術様式も変化した。太陽王時代の荘重さにかわり、軽快、繊細、典雅など、いかにも生の楽しさを感じさせるロココ様式の登場である。フランス美術は全ヨーロッパの主導的地位をしめ、フランス語がヨーロッパ上流社会の常用語となったのもこの時代である。
 1740年代〜60年代にかけ、フランスはオーストリア継承戦争と七年戦争という二つの大戦争にまきこまれた。その合間にはインド、アメリカを舞台に、植民地帝国を賭けて英国と戦わねばならなかった。63年、英国と結ばれたパリ条約は、史上最も惨めな条約の一つで、北米大陸の植民地を英国に奪われ、インドにもわずかな商業上の根拠地を残すだけになり、フランスの国際的地位は低下した。
 1774年、ルイ十五世が天然痘で死去し、十九歳の孫がルイ十六世として即位する。狩猟と錠前作りが趣味という凡庸な王で、1775年から89年にかけ「猪狩り一四回、牡鹿狩り一三四回、鹿狩り二六六回、鉄砲打ち一〇二五回」との記録がある。
 ハプスブルク家から嫁いだ王妃マリ一・アントワネットは、「立つとき座るときは美の彫像、動けば生きた優雅」などと讃えられる美貌の持ち主だった。
贅沢や賭け事に国庫の金を湯水のように使う彼女は、革命の気運が高まると、民衆から赤字王妃オーストリア女と罵られるようになる。
 1789年五月の三部全開催、6月20日の「球戯場の誓い」そして7月20日のバスティーユ占領でついに革命の火蓋は切られ、10月5日、六千人の庶民の女たちと、三万の国民衛兵隊が「王妃の身柄とパン」を求めてヴェルサイユに向けて進軍を始める。
 捕因の身となった国王と王妃の一行はヴェルサイユからパリに移され、同時に議会もパリに移った。1791年6月、国王一家がひそかに試みて失敗した逃亡事件は、国民の王への信頼を大きく裏切り、王政廃止の声が一段と高まった。
 さらに亡命貴族はドイツの諸君主と組んで、外から革命を脅かしている。ジロンド派は抗戦を主張し、92年4月ついに議会の決議でオーストリアとプロイセンに戦線布告したが、フランスは敗退を余儀なくされ、立法議会は窮地に立たされた。
 同年9月、新たに成立した国民公会は、満場一致で共和政の樹立を宣言。ルイ十六世裁判で王を弁護するジロンド党に対して、山岳党は王の裏切りを幾つか摘発して王の処刑を要求する。ついにルイ十六世は93年1月21日、ギロチンの露と消え、これに驚愕したヨーロッパの諸君主は、互いに同盟して革命を外からつぶそうとした。
 国民軍の協力のもとにジロンド党との勢力争いに勝利した山岳党は、公会で採決した「反革命の容疑者に関する法令」をもとに、反革命分子への追跡を開始する。王妃マリ一・アンーワネット、ジロンド党の花ロラン夫人と、痛ましい処刑者が続いた。
 政権を握ったロベスピエールは革命戦争の遂行に全力を傾けたが、彼の努力で内外の反革命勢力が抑えられるにつれ、国民は恐怖政治に嫌気がさしてきた。公会内にも反ロベスピエールの動きが高まり、ついに彼の一味は7月28日に逮捕され処刑されてしまった。

 
ナポレオン=ボナパルト
 山岳党の独裁が終わりを告げた95年10月、王党派は銀行家や実業家から資金を得て反乱を計画し、国民公会を包囲した。このとき軍司令官に選ばれ、一夜で反乱軍を敗走させた青年士官が、ナポレオンその人である。
 その後イタリア進撃で奇跡的な大連勝をとげたナポレオンは、98年11月のクーデターで権力の座についてからはヨーロッパ大陸の大半を手中に収め、フランス皇帝として権力の絶頂に立つが、1812年のロシアへの敗北後は、駆け足で破滅への坂をすベりおち、14年のエルバ島亡命、百日天下、ワーテルローの戦い、セント・ヘレナ島への流刑と、その天下は慌ただしく終わりを告げる。
 その後、革命と戦争に荒らされたヨーロッパの国々に、各地に亡命していた君主たちが返り咲いた。
 1814年にパリに帰還したルイ十八世(十六世の弟)は、革命以来の三色旗を廃して、ブルボン家の紋章である百合の花を配した昔の国旗を復活させる。
 彼の後、こちこちの反動のシャルル十世(ルイ十八世の弟)が即位すると、まさに亡命者の天下が実現されるかに見えた。革命で領地を失った亡命者に補償金を支払う法案も議会を通り、アンシアン・レジーム(絶対君主制)の再現は間近と思われた。
 しかし、大ブルジョワを基盤とする自由派は王の政治にしだいに批判的になり、共和派の人々も反政府の運動を繰りひろげ、28年の総選挙では反政府派が圧倒的勝利をおさめた。
 だが、そんな情勢にもかかわらず、シャルル十世は譲歩を説く声に耳を貸さなかった。
「反政府議員が出るのは選挙法が悪いからだ。選挙権により厳重な制限をつけよう」この時代錯誤の勅令が発表されたとき、革命運動が始まった。
 1830年7月27日、市民や学生は集会を開いて気勢をあげ、街角には家具やレンガでバリケードが築かれ、三色旗が翻った。狼狽した政府は軍隊を出動させ、銃弾がみだれ飛び、硝煙がたちこめた。
 七月革命の「栄光の三日間」と讃えられた戦闘が終わり、シャルル十世が命からがら英国に亡命したあと、ルイ・フィリップ(ルイ十六世の従弟オルレアン公の長男)の七月王政が始まり、48年に起こった二月革命で彼が失脚するとき、二百六十年あまり続いたブルボン王朝は、ここに終焉を迎えた。

 参考文献:『歴史Eye』1994年9月号 日本文芸社