元の世祖(フビライ


「元ノ世祖ハ、・・・・・・固ヨリ開国の英主ニ属ス。
然レドモソノ嗜利黷武ノ心ハ、則チ天性ニ根ザシ、
ソノ身ヲ終ワルマデイマダカツテ稍モ変エズ」
                      (『二十二史箚記』)


 略伝 蒙古帝国の第五代皇帝で、元王朝の初代皇帝。在位・1260〜1294年。1215年、トゥルイの次男として生まれる。祖父はチンギス・ハーン。
1251年、兄モンケの即位(第四代憲宗)とともに「漠南漢地大総督」に任命され、中国統治の最高責任者となり、中国経営に力を注ぐ。1257年、モンケは大規模な南宋討伐の軍をおこしたが、59年、遠征先で急死、別路から進攻中のフビライは、やむなく南宋側と和議を結んで北に帰った。60年、クリルタイを招集、皇帝に推挙されてモンケの後を継ぐ。67年に大都(北京)を築いて遷都、1276年には南宋の都、臨安を陥落し、全中国を手中に収めた。治世中、しばしば外征の軍をおこし、なかでも、1274年、1281年の二度にわたる日本遠征は「文永・弘安の役」としてよく知られている。1294年に死去。




ここでは、フビライが日本に贈った国書を紹介する。国書は次の通り。
「大蒙古皇帝、日本国王に書を奉る。朕惟うに、古より小国の君すら境土あい接すれば、なお講信修睦に務む。いわんやわが祖宗は天の明命を受け、区夏(中国)を奄有す。遐方(かほう・遠方)の異域の、威を畏(おそ)れ徳に懐(なつ)く者、悉く数うべからず。
朕が即位の初め、高麗の無辜(むこ)の民の久しく鋒鏑(ぼうてき・戦争)に瘁(つか)れしをもって、すなわち兵を罷(や)めてその疆域(きょういき)を還し、その旄倪(ぼうげい・老人子供)を反らしめたり。高麗の君臣は感戴(かんたい)して来朝し、義は君臣といえども、歓は父子の如し。
計るに王の君臣もまたすでにこのことを知らん。高麗は朕の東藩なり。日本は高麗に密邇(みつじ)し、開国以来、また時に中国と通ぜり。朕が躬(み)に至りては、一乗の使のもって和好を通ずるなし。なお恐らくは王の国のこれを知ること、未だ審(つまびら)かならざるを。故に特に使を遣わして、書を持ちて朕が志を布告せしむ。冀(ねがわ)くは今より以往、問を通じ好を結び、もってあい親睦せん。
かつ聖人は四海をもって家となす。あい通好せざるは、あに一家の理ならんや。
もって兵を用いるに至るは、それ孰(たれ)か好む所ならん。王それこれを図れ」 



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