源 家 Genke
武門の棟梁



◆八幡太郎義家
◆賀茂次郎義綱
◆新羅三郎義光



「天下第一武勇之士」
 ▼義家は頼義の長子で陸奥守、鎮守府将軍に任ぜられる。後三年の役後の一連の出来事で、義家の人気が上がると面白くない白河上皇はすぐさまその対抗として次男の義綱を利用する。義綱は京都の賀茂神社の神前で元服したので賀茂次郎と称す。前九年で安倍貞任を討ち左衛門少尉に任ぜられた。だが、以前として義家の人気はとどまることを知らず、多くの農民が土地を寄進した。次第に主君と郎等の関係が強化され勢力を増す源氏に対して危機感が募る。
 そんな折り、一つの事件が起こった。1091年6月、義家と弟義綱が京に兵を集めて一触即発の事態を迎えた。原因は義家の郎等藤原実清と義綱の郎等清原則清が河内における所領を争いが双方の主にまで飛び火した。この事件により義家に所領を寄進することを禁止する令が畿内七道に出されたが結局、この事件でも源氏の武士は郎等の為に同腹の兄弟との間でも合戦を辞さないとかえって義家の人気が上がった。こうした人気とは裏腹に義家は11年間前陸奥守であった。そして1098年遂に院の昇殿を許した。これは長年の不満を緩和するためでもあった。1093年出羽で平師妙、師季親子が謀反を起こし、これを平定した義綱は、従四位下に叙され、陸奥守から美濃守になった。
 しかし、義家は天下第一武勇之士であり、また、武勇だけでなく、「吹く風を勿来の関とおもへどもみちもせにちる山桜かな」と和歌なども嗜んだ。
そして大江匡房(おおえまさふさ)について兵書を学んだ。匡房は神童と言われた学者であるが、おそらく彼の兵法如きは、百戦錬磨のつわものの義家の幾ばくの参考になったかは定かではないが、それよりも、重要なのは義家が学者を遇する術を持っていたことである。これらの深い度量が義家の人気の秘訣であったにちがいない。
つづく・・・・・・・・・・・・今宵はココまで!


 
源義家1039〜1106
母は平直方女。八幡太郎と号す。左近衛将監、検非違使、左衛門尉、左馬権頭、河内・相模・武蔵・信濃・下野・伊予等の国守を歴任。正四位下。その誕生に際して、父頼義は直方から「鎌倉の屋敷」を譲渡されたという。永保元年(1081)二月、鎌倉の鶴岡八幡宮に修復を加えたという『吾妻鏡』の記載もこれに関連する。前九年の役には、父頼義に従って安倍氏と戦い、その功によって康平六年(1063)二月、従五位下に叙されるとともに、出羽守にも任ぜられた。翌年、辞退して越中守を希望したが果たせなかったらしい。関白藤原頼通邸で軍功を披露した際、大江匡房から兵法の未熟さを論され、匡房に師事したという。承暦三年(1079)美濃国で源重宗と同国房が戦った時には、詔を受けて重宗を追討、更に永保元年の園城寺と延麿寺の抗争の際には、検非違使とともに園城寺の僧兵を追捕。同三年ごろ、出羽国の清原真衡が異母弟清衡・家衡と対立したが、陸奥守兼鎮守府将軍に任ぜられた義家が下向、これを収拾した。その直後、真衡は急病死。遺領について裁定し、清衡・家衡に折半した。これを不満とした家衡は、清衡を攻撃してその妻子を殺害したため、義家は清衡を助けて家衡の沼柵を攻撃、しかし冬の大雪と飢寒のため敗北した。寛治元年(1087)九月、家衡の金沢珊(現秋田県横手市)を攻撃。同年十一月、柵は落ちて家衡が敗死、清原氏が滅んだ。いわゆる後三年の役である。この戦役に際して、義家は国解を差し出し、家衡追討の官符を要請したが、朝廷は私闘として官符を発せず、戦役平定後の勧賞もなかった。そのため、私財を以て配下の軍将をねぎらったため、両者の関係がより強化されることにもなった。同五年六月、義家の郎等藤原実清と、義家の弟義綱の郎等清原則清は河内国の所領をめくって争うことがあった。義家・義綱もそれぞれに加担して、合戦に及ぶところであったため、朝廷は諸国からの兵士の入京を禁じ、更に諸国百姓が公験を義家に寄進することを制止。翌年には義家の立てた諸国の荘園をも停止した。承徳二年(1098年)院の昇殿を許された。康和三年(1101年)七月ごろ、義家の嫡子義親は対馬守として九州にあったが、大宰府の命に従わず、人民殺害、公物椋奪を繰り返したため追討使が派遣された。同時に父義家をして義親を召喚させようとしたが、義親は帰洛を拒否。翌年十二月、朝廷は義親の隠岐流罪を決定したが、義親の濫妨は続いた。その間、長治元年(1104)延暦寺衆徒の濫妨停止のために僧兵を追捕しているが、義親問題が解決しないまま、嘉承元年七月四日、病により出家、同日六十八歳で没した。その墓は河内国の通法寺に所在するという。
源義綱 1042?〜1232?
頼義の二男。源義家の弟。母は義家と同じ上野介平直方の娘。京都の賀茂神社の神前で元服したので賀茂次郎と称す前九年の役には兄義家とともに父に従って活躍し、左衛門尉に任ぜられた。しかし、寛治五年(1091)義家と互いの郎等どうしの争いから対立し、兵を構えるに至った。翌年陸奥守、嘉保元年(1094)には出羽の叛乱の鎮圧の功により従四位上美濃守。義家の死後、源氏の一族内訌が起こり、天仁二年(1109)義家の四男で源氏の嫡流を継いだ義忠が殺害された。この事件を指嗾人に三男義明が推定さた。父である義綱も疑いをかけられ、近江の甲賀山中にこもったところを源為義(義家孫、義忠養子)の追討を受けて出家し降伏する。しかし、長男義弘は父に自害をすすめるためその場で高い木に登り、谷間に身を投じて自殺、弟義俊も兄を追い投身自殺。四男義仲は火中に飛び込み焼身自殺、五男義範は切腹、六男義公は後日自害。病気の為に父に随行していなかった三男義明は追っ手、源重時の兵を受けて戦死した。義綱自身も佐渡に流され、再び追討を受けて自害した。のちに義忠殺害の嫌疑は冤罪であったことが判明するが、ここに一門は滅びた。






賀茂神社


源義光1045〜1127
母は上野介平直方の娘。園城寺新羅明神の社前で元服したので新羅三郎、または館三郎と称する。
弓馬に優れていたほかりでなく、音律にも達者で、笙を豊原時元に学び、時元死去の際忙は秘曲「大食調入詞」を授けられたという。左兵衛尉となり京師に宿衛していたが、後三年の役で兄義家が苦戦と開き、朝廷の許可を得ずに官を辞して陸奥に赴く。これに対し義家は、「亡き父が生き返って来たようだ」と喜んだ。乱後、養家に従って帰洛、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て従五位上に叙され、刑部少輔に至る。刑部少輔時代に白河院の近臣藤原顕季と陸奥国蘭多荘を争ったが、「義光の恐ろしい恨みを買うよりは、たくさんの荘の中から一荘を譲ったほうが顕季のためになる」という院の説得に従った顕季に対して、義光は恩を感じ、各簿を捧げ、顕季の外出には必ず警護の武士を数人従わせたという説話は有名である。康和年間(1099〜1104)から常陸大掾氏と組んで常陸国に地盤を作るが、その過程で、秀郷流足利家と手を組む義家の子の義国と衝突したことが『永昌記』嘉承元年(1106)六月十日条に見えている。また義家の死後、その後継者義忠殺害事件が起きて源義綱追討へと発展するが、この事件の背景には義光があったと噂されている。常陸国久慈郡佐竹郷を本拠として興る佐竹家、及び信濃国の武田・安田・小笠原等の諸家の祖となるが、嘉承元年には近江国甲賀郡柏木郷を園城寺に寄進しており(『園城寺伝記』)、東国の各地に地盤を作っていたことがわかる。大治二年十月二十日卒去。『後拾遺往生伝』中には、病を得ても念仏を怠らず大往生を遂げたと伝える。


      ▼新羅善神堂










武門の潮流
源義親(?〜1108)
三河守源隆長女兄義宗の早世により義家の嫡男となる。「六位国之功」を成して対馬守に補されたが、在任中の康和三年(1101)七月、九州における乱行を大宰大弐大江匡房に告発され、朝廷では追討が議された。翌四年二月、召喚に赴いた義家の郎従藤原資通とともに官使を殺害したため、同年十二月に隠岐国へ配流となった。しかし父義家死去の翌年である嘉承二年(1107)義親は出雲に渡り、国守藤原家保の目代らを殺害し官物を奪取した。更に近隣諸国にもこれに同調する者が現れるに至ったため、朝廷は因幡守平正盛を追討使に任命、因幡・出雲なと五か国の兵士を率いて追討に当たらせた。正盛は同年十二月十九日に出京し、翌年正月六日に出雲に到着。同月十九日には養親謀殺の報が朝廷にもたらされ、正盛は帰洛を待たずに但馬守に選任、同時に武士の第一人者となった。一方、義親の首は二十九日に入洛し、獄門にさらされたが、その実否については疑惑が抱かれ、その後再三にわたって義親を称する者が出現することになる。特に大治四年(1129)七月、義親追討を命じた白河法皇が死ぬと、翌年にかけて義親を名乗る者が相次いで京に現れ、遂には相互に闘乱するに至った。しかしこれらは偽者と断定され、同五年十一月に、前関白藤原忠実の鴨院にかくまわれていた義親なる者が襲殺されたのを最後として、義親生存説は終止符を打った。
源為義(1096〜1156)
義親の四男。養家の養子。六条判官または陸奥判官と号する。義親が国守として対馬に赴任した際、京都に残り、祖父義家のもとで養育されたらしい。義親が西海道で謀叛を起こしたことにより、義家の継嗣となった叔父義忠の養子となる。天仁二年(1109)二月、義忠が暗殺されたため、河内源氏の嫡流を継承。翌月、義忠暗殺の犯人とされた源義鋼追討の功によって、左衛門尉に任ぜられた。その後、都の武者として僧兵強訴の防衛に当たり、大治四年(1129)までには検非違使に補されていたことが知られる。しかし、彼は武士社会の主従結合を重んじるあまり、その郎等ともども反社会的行動が多く、平家のように院や貴族の支持を得ることなく、保延二年(1136)十月、左衛門尉を辞任。その後、10年間を無官で過ごした。この間、摂関家への接近を図り、康治二年(1143)十月、藤原頼長に臣従の礼をとった。久安二年(1146)正月、左衛門大尉に還任し、再び検非違使となった。彼は嫡子義朝を坂東で、八男為朝を鎮西で育てるなど、京都周辺のみならず全国的な主従関係の形成・拡大に努めたが、久寿元年(1154)十一月、為朝が鎮西で濫行を行ったのを制止せず、召喚を怠ったことを理由に、またしても解官された。
保元の乱では、崇徳上皇方として内裏への先制攻撃を主張したが容れられず、敗戦ののち義朝を頼って自首したが許されず、京都船岡山辺で斬られた。
源為朝(1138〜1170?)
為義の八男。母は江口の遊女。通称鎮西八郎。身体強大で武勇に優れ、特に弓射に抜群の技量を示したと伝えられる。十三歳の時、鎮西に渡って豊後国に居住し、在地武士(『保元物語』に肥後国阿蘇平四郎忠景の子三郎忠国とあるが、忠景は薩摩国住人阿多平四郎忠景の誤りと考えられる)の婿となり、周辺勢力を結集して騒擾を事とした。このため政府は久寿元年(1154)十一月、為朝の行動に制止を加えず、京都へ召身もしなかった父為義を解官。また同二年四月には、為朝に与力する輩を禁遏すべき旨の宣旨を大宰府に下している。保元の乱の際には父為義に従って、崇徳上皇方として奮戦。乱後、近江国坂田で源重貞に捕らえられたが、死一等を減ぜられて伊豆の大島に流罪となった。しかし、ここでも横暴を極めたので、嘉応二年(1170、安元二年(1176)とも)伊豆の在庁狩野茂光の軍勢に攻められ自殺した。文治年間(1185〜90)南九州で叛乱を起こした豊後冠者義実は為朝の子息と考えられる。