漢の武帝


「帝ハ聡明ニシテ能ク断ジ、善ク人ヲ用イ、
法ヲ行ナウ仮貸(カタイ)スル所ナシ」「孝武ハ奢ヲ窮メ欲ヲ極ム、……ソノ秦始皇ニ異ナル所以ハ機ドナシ」
『資治通鑑』 



 漢王朝の第7代皇帝。西暦前141年〜87年。
前159年、景帝の中子として生まれ、前141年、景帝の死とともに、皇帝の位につく。当時、漢王朝は建国以来70年、すでに財政的にも政治的にも安をみせ、武帝はこの基盤に乗り、積極的に人材を登用して中央権力の強化をはかるとともに、きわめて意欲的な対外政策を展開した。とくに対匈奴との戦いに主役となった衛青、霍去病ら名将の出現、西域に使いした張騫の活躍などは武帝の治世に華やかな色を添えた。だが、あいつぐ外征によって、治世は半ばごろ国家財政は窮迫し、ために新経済政策を導入して立て直しをはからなければならなかった。張湯ら酷使の登用も暗い面を示している。特に晩年は、社会不安が高まり、宮中の陰謀事件まで惹起。武帝も昔の面影を失ってしまった。前87年、霍光ら重臣に後事を託して薨去。




劉徹は、在位五十四年と清の康煕帝の六十一年乾隆帝の六十年などに次いで長い、かれの偉大さは単に治世の長さにあったわけでなく『秦皇武漢』という言葉があるように、よく秦始皇帝と並び称され、さらに、孔子を加え「教えは孔子より成り、政は始皇より立ち、境は武帝より定まる」と言われる。武帝は中国の版図を定めたということである。
 つまり、匈奴との戦いに勝利して、西域への道が開けたことがいえる。冒頓単于が登場し情勢は一変する。冒頓単于が全匈奴を統一したころは漢の高祖の時代で武帝が即位するまでの七十年全く頭が上がらなかったのだ。しかし、『雄才大略』と称された武帝には耐えられなっかたのであろう。いずれにせよ、数度にわたる遠征によって、また、衛青、霍去病の活躍によって匈奴を漠北(ゴビ砂漠の北)へ追いやった。しかし、度重なる遠征で国家財政の危機を迎えたことも事実意である。
晩年は「麒麟も老いては駑馬に劣る」という言葉があるが彼にもいえると思う。そう言う時に起こったのが巫蠱事件である。巫蠱とは木で人形を作り、これを土の中に埋めて相手を呪い殺す一種の呪術である。皇太子が、拠が呪詛の疑いをかけられ、罠にはまったと知った拠は兵を挙げ親子で血で血を洗う戦いの末、拠は捕らえられて、自害して果てた。後にこの巫蠱事件は冤罪とわかり、そのことを知った武帝はすっかり気落ちしてしまった。こうして七十三年の人生を閉じた。




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