漢の高祖


「陛下ハ兵ニ将タルコト能ワズ、而シテ善ク将ニ将タリ。……カツ陛下ハ所謂天授ニシテ人力ニ非ズ」
『史記』淮陰候列伝 



 漢王朝の初代皇帝。西暦前202〜前195年。
前256年、名もない農民の子として沛県に生まれる。若いとき百姓仕事を嫌って遊侠の徒と親交を結び、泗水の亭長という下級職に就任したが、秦末の動乱にさいし沛県の子弟に担がれて反乱軍の指導者になる。やがて項氏の軍と合流し、前206年、秦の都咸陽へ一番乗りを果たして秦を滅ぼし、「覇王」の項羽によって漢王に封じられたが、翌年、項羽に反旗を翻し、四年亘る苦闘の末、ついに項羽を破り、前202年、漢王朝を興して皇帝の位につく。同時に、長安に都を定め、壮大な未央宮を営み、制度書物を整えて王朝の基礎を固めた。が反面、皇帝即位後も、韓信、彭越、英布などの諸王の反乱に悩まされ、自らから陣頭にたち鎮圧にあたった。
前195年、反乱鎮圧のさいに受けた矢傷が悪化して死去。




秦朝末期動乱の時代の主役は項羽と劉邦である。二人の若い頃のエピソードに始皇帝の行列に、各々が出くわした時、項羽は「やつに取って代わってやる」と意気巻いたのに対し、劉邦は「ああ、男として生まれたからには、こうでなくてはな」とつぶやいた。これは二人の性格の違いを表現している。
 争覇戦は、初め項羽側が圧倒的に優勢であったが、いつのまにか形成が逆転して、「四面楚歌」の情況に追い込まれついに天下は劉邦の手中に入った。
 劣性であった高祖が勝利した理由は何だったのか?
 項羽を滅ぼして、都に凱旋した劉邦が、臣下にこう語った。「ひとつ腹蔵のない意見を聞かせて欲しい。朕が天下を取った理由は何か、また項羽が天下を失った理由はなにか」すると家臣の高起と王陵が憚りながら答えた。
「陛下はどちらかと言えば、傲慢で相手を馬鹿にするところがあります。その点項羽は情にもろく、部下を可愛がりました。しかし陛下は、都城や領土を攻略すると、気前よく分け与えて、けっして独り占めなさいませんでした。項羽はそうではありません。一方では猜疑心が強く、能力や手腕を発揮しようものなら、かえって目の敵にする始末。手に入れたものは自分だけの功にして、分け与えません。これが天下を失った理由かと存じます」すると劉邦は「貴公らは一を知って二を知らない。いいかな、帷幄の中に謀をめぐらし、千里の外に勝利を決するという点では、朕は張良にかなわない。内政に充実、民生の安定、軍糧の調達、補給路の確保ということでは、朕は蕭何にかなわない。百万もの大軍を自在に指揮して勝ちをおさめるという点では、朕は韓信にかなわない。この三人はいずれも傑物と言って良い。朕はその傑物を使いこなすことができた。これこそ、朕が天下を取った理由だ。項羽には范増という傑物がいたが、かれがこのひとりすら使いこなせなかった。これが、朕の餌食になった理由だ。」と語ったという。



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