ロマノフ王朝は最後の大専制国家の王朝であった。それは後継者のソ連と同様に、国際社会において何か秘密の匂いかする薄気味悪い存在であった。ヨーロッパにおいても仲間というより、半ばアジア的な恐ろしい専制君主であり、アジアにとっても一六世紀以来、たちまちのうちにシベリアを侵略し、さらに南進を狙っている獰猛な白能であった。 国内的にも帝政ロシアは、なまやさしい国家ではなく、農民の多くは農奴として売却できるようつな身分のに落とされた。宗教的にも皇帝が全権を握り、体制に批判的な人たちは死刑や、酷寒のシベリアに流刑にされたりしたものである。しかも、その国にはドストエフスキーや、トルストイのようつな深刻な文学が生まれたばかりでなく、チャイコフスキーやロシア・バレエといった華麗な芸術もまた育ったのである。 ざっとこのようなイメージが、ロマノフ王朝につきまとっているわけであるが、この王朝や、それが支配するロシア人のプライドは、極めて高いものがあった。 彼らは、世界の都はローマー、コンスタンティノープルからモスクワと移動したと考えており、モスクワは第三のローマであるし、皇帝を意味するツァーリというロシア語は、ローマのカエサルの崩れたものであるし、その紋章の双頭の鷲は、ビザンツ(東ローマ)皇帝のものだったのである。 このロマノフ王朝か始まるのは、一六一三年のことである。ロシアの建国以来、モスクワ大公としてロシアに七〇〇年以上も君臨してきたリューリク朝が断絶したのは、一五九八年のことであるが、それから一五年間は、ボリス・ゴドノフが覇権を握ったり、あいついで偽皇子が出現したりした、大混乱の時代であった。そうしたなかで、いわば事態を収拾するために、ミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに推戴されたのである。 それはロマノフ家の力によるというより、諸勢力の無難な選択の結果だったようである。当時ミハイル(在位一六二二−四五年)は十六歳の少年であったし、大貴族たちの勢力も大きかった。ただロマノフ家はイワン雷帝の妃のアナスタシアを出した名家であったし、下層貴族やコサックの間で声望が高かったので選ばれたのであるが、これが三〇〇年も続くロマノフ王朝のスタートとなったのである。 ミハイルに続いてしばらくは凡庸な力のないツァーリが続いたが、五代目のピョートル一世(在位一六八二〜一七二五年)で初めて傑物皇帝が出現することとなった。ロマノフ朝で大帝の名がつく大物は、披と十二代目のエカナェリナ二世(在位一七六二−九六年)の二人だけである。 彼は子供の頃は「戦争ごっこ」が大好きな遊びずきの少年であったが、成人すると実質的な、ロシア帝国の建設者となるのである。 彼が即位した頃のロシアは、決して強大な国ではなかった。キプチャク汗国のいわゆるタタールのくびきから解放されてはいたけれども、西方では当時ポーランド王国はまだまだ強大であり、さらに北方ではスウェーデン王国の全盛時代であり、ピョートルは一七○○年から一七二一年にかけて北方戦争を戦わなければならず、ナルヴァの戦いでは大敗を喫して真剣に国内体制の改革を志さなければならないまで追いつめられている。 ピョートルの、心を突き動かしたものは、やはり内陸国家ロシアの「海への出口」を求めることであったと思われる。それで、一方ではアゾフ海、黒海への進出を求めて一六九五、六年にトルコ軍に対してアゾフ遠征を行ない、他方ではパルト海への出口を求めてスウェーデンに挑戦して北方戦争を戦うこととなったわけである。 彼がバルト海に面するネヴァ河の畔にサンクト・ペテルブルクを建設し、ここに首都をモスクワから移したのもこのことの現われだろう。 この海への関心は彼方の西欧への憧れにつながる。彼は大使節団を編成して一六九七年から翌年にかけてオランダ、イギリスなど西欧視察を行ない、船大工の真似などをしているが、それ以外にいくつもの近代的改革をも行なっている。とはいえ、それはこの国の民主的変革を志したものでは全くなく、むしろ専制政治を効率よいものとし、強化するものであったことは忘れられてはならない。彼の後のロマノフ朝の皇帝も周期的にペレストロイカ改革を繰り返しているが、一貫してこの点は変わっていない。 ピョートル一世の死(一七二五年)以後、一七六二年にエカチェリナ二世が即位するまでの三七年は、奇妙な混乱の時代である。この間につぎつぎと六人の皇帝が即位したが、その半分の三名が女性、さらに三名の男性のうち二名は幼児、例えば、ビョートル二世は僅か三か日の乳呑み児であった。このことはロマノフ家の内部が乱脈をきわめ、性格破産者的な皇帝があいつぎ、皇位の継承が無秩序であった結果であるが、こうした状態に終止符を打ったのが、エカチェリナ二世である。 エカチェリナ二世は、プロシヤの貴族のアンハルト・ツェルブスト公の娘ゾフィーで、十一代目のピョートル三世と結婚するためエカチェリナと改名し、やがて頭のおかしい夫を引きずりおろして自ら帝位に登ったのである。このことは彼女はピョートル大帝と血がつながっていないということであるが、夫のピョートル三世も大帝の娘のアンナとドイツのホルシュタイン公との間の子供であるから、後とエカチェリナ二世との間の子供のパーヴェル一世の子孫であるその後のロマノフ家は、正式にはロマノフ・ホルンュタイン・ゴットルプ家ということになる。 代である。彼は特に自由主義的な人物ではなかったが、敗戦の原因がロシア社会の前近代性、とりわけ農奴制にあることは認めないわけにはいかなかったのである。それ故、彼は一八六一年、ついに農奴解放令に署名したのであるが、しかし、その解放は有償のため、事実上、農民の地位は改善されることはなかったのである。それ故、むしろ、この政策は幻滅をまきちらす結果に終わらなければならなかったし、ナロードニキと呼ばれる反体制的な知識人を多数生みだすこととなった。 その彼らに対する弾圧は、ますます彼らを過激にし、テロリストにしていったのであるが、ようやくこのことに気付いたツァーリが譲歩し、立憲的改革の詔勅に署名した。その日、一八八一年三月一日、アレタサンドル二世は爆弾に倒れたのである。 その後をついだアレタサンドル三世とともに、ふたたび反動の時代となる(在位一八八一〜九四年)。この時代の特徴は、積極的に極東に進出し始めたことである。彼は満州からさらに朝鮮に手を伸ばした。この進出を兵站面で支えるためにシベリア鉄道の建設に着手させたのも彼である。 そして、彼の事業を受けつぎ、推進することとなったのが、ニコライ二世であって、彼はロマノフ王朝を滅亡させ、やがて悲劇的な死をとげることになるわけである。 このニコライ二世(在位一八九四〜一九一七年)の運命を方向づけたものは、彼が父親から受けついだ極東進出が、日本の強烈な反撃を招いたことにあるように思われる。 彼が皇太子時代日本訪問中、大津事件にぶつかったのは奇しき因縁であるが、日清戦争で三国干渉によって彼は満州を占領し、朝鮮にも手をだした。これは日本の安全を危うくしたばかりでなく、ユーラシア大陸の南辺の全線にわたってロシアの南進を妨げ、内陸に封じ込めようとするイギリス帝国の世界戦略をも脅かしたのである。その結果、一九○二年に日英同盟が結成され、ニコライもバルチック艦隊を極東に回航してまで努力したが、日露戦争の海戦で日本に撃破されてしまったのである。 この敗北は、ロマノフ王朝のバランスを完全に失わせてしまった。まず一九〇五年の革命をひきおこし、これに対しストルイピンの改革でしのごうとしたが、もはや手おくれであった。第一次世界大戦の中で一九一七年、二月革命はニコライの退位を強いた。皇弟のミハイルも帝位をつぐことをがえんぜず、かくしてロマノフ王朝は滅亡した。 そして旧皇帝一家は翌一八年七月十八日、エカテリングブルク(現スヴェルドロフスク)で、共産党のパルチザンによって惨殺されたのである。 それから八○年にわたる共産党独裁の時代が来たが、しかし、それも終わりを告げた。帝政時代の三色旗が復活したが、しかし、ロマノフ朝が復辟することはおそらくないであろう。 とはいえ、ロマノフ時代の専制主義は共産党時代にも継承され、世界を脅かし続けたし、共産党が崩壊したとはいえ、民主主義が根づいたとも思われない。この意味でロシアには、まだロマノフ時代が続いていると言うこともできよう。 |