秦の始皇帝

「秦ノ始皇ノ宜ンド短祚ナルヤ一ナラズ、而シテ人ヲ知ラザルヨリモ甚シキハナシ。ソノ察セザルニ非ザルナリ。タダソノ諛を好メバナリ」『読通鑑論』



        
 皇帝在位・西暦前221〜210年。前259年、趙の国に人質となっていた荘襄王(そうじょうおう)の子として、趙の都邯鄲(かんたん)で生まれた。前247年13才で秦王(三十一代目)の位につき、前237年、丞相の呂不韋を追放して国政の実権を握る。李斯、尉繚らを登用して対外政策を強化し、精強な始皇軍にものをいわせて、対立抗争を続けていた六カ国を滅ぼし、前221年、ついに全中国の統一を完成した。統一後、「皇帝」の名称を採用するとともに、文字や度量衡、貨幣の統一郡県制度の採用など、統一国家としての制度を整えた。しかし、その反面、万里の長城の構築、阿房宮や驪山陵の造営などのおける過度の人民使役、さらには、「焚書坑儒」(ふんしょこうじゅ)事件によって人民の反発を招き、自滅の原因を作ったとされる。前210年、東方巡幸中に病を得て死去。二世皇帝が後を継いだが、四年後、各地で起こった抗暴運動によって秦帝国も滅びた。




秦王政が紀元前221年に韓・魏・趙・燕・楚・斉の六ヵ国を滅ぼして統一したとき、これから君主の新しい称号を選ぶ必要に迫られた。なぜなら、今まで通り「王」を名乗り続ければ自らの手で滅ぼした六ヵ国の王と同格であることを意味する。
そこで、皇帝となのった。最初の皇帝なので始皇帝という



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