清の康照帝


三千年の土壌に開花した理想の指導者像「仁孝ハ性成ニシテ智勇は天錫ナリ。早クニ大業ヲ承ケ、政ヲ勤メ民ヲ愛シ、寰宇一統ス。
守成卜曰ウトイエドモ、実ハ開創ニ同ジ」
(『清史稿』)



 清王朝の第四代皇帝。在位1661年〜1722年。
1654年、順治帝の第三子として生まれる。1661年、順治帝の遺詔によって後継者に指命され、皇帝の座についた。が、わずか八歳の幼年であったので、オポイら四人の元老が補政の任にあたったが、1667年、親政を始め、専権を振るったオボイを失脚せしめる。
1673年、呉三桂らによって「三藩の乱」がひきおこされたが、1681年までにこれを鎮圧、ついで1683年、台湾の鄭氏を降し中国の全域に支配権を及ぼす。
内政面では、みずから節倹につとめて民生の安定につとめる一方、外交面では、しはしば武力衝突を繰り返してきた帝政ロシアと、1689年、ネルチンスク条約を結んでその南下をはばんだ。
 また、漠北に勢力を振るっていたガルダンに対して、1696年から1697年にかけて三度も親征し、これを平定した1722年、病を得て死去。




康煕帝は、姓を愛新覚羅、名を玄Yという。清王朝の四代目の皇帝で、一六六一年、北京で即位した。清はもともと満州からおこった王朝で、創業の基礎を打ち立てたのは、康煕帝の曾祖父にあたるヌルハチ(初代太祖)と祖父にあたるホンタイジ(二代太宗)である。すなわち太祖ヌルハチは当時「女真」と呼ばれていた満州族を統合し、明の支配を破って後金国を建て、瀋陽に都を定めて、国家の体裁をととのえた。ついで、太宗ホンタイジは、一六三六年、国号を清と改めるとともに、南満州、内モンゴルを支配下に収め、衰退をきたしていた明王朝に重圧を加えるに至った。ヌルハチ、ホンタイジの二人は、用兵、政略ともにすくれた英傑で、この二代の間に、清王朝はゆるぎのない地盤を満州・モンゴルの地に築いたのである。一六四三年、ホンタイジが死去し、その子のフリンが即位した。三代目の順治帝である。
 即位したときはわずか六歳にすぎず、叔父のドルゴン(ホンタイジの弟)が摂政として実権を握った。ドルゴンもなかなかの英傑であったらしい、李自成の反乱によって明王朝が滅びた好機をとらえ、配下の軍勢を率いて山海関を突破し、北京を占領した。一六四四年のことである。そしてすぐさま順治帝を北京に迎え、中国の主人公におさまった。六年後、ドルゴンが死去し、順治帝の親政が始まったが、親政十年、二十六歳の若さで死去する。このときにはすでに、各地でくりひろげられた反清の抵抗運動は鎮圧され、中国の全域がほぼ清王朝の統治下に入っていた。
 こうして、順治帝の遺詔によって後継者に指名されたのが、第三子の玄Y、すなわち康煕帝である。当時、わずか八歳にすぎなかった。八歳の少年皇帝は、ソニン、スクハサ、エビルン、オボイの四元老の補佐政治で始まった。この四人は「八旗」と呼ばれる近衛将軍たちであった。しかし、この四頭政治は各々が権力闘争に走り、実権を握ったオボイが専横を振るった。
一六六七年、即位七年目遂に、蒙古相撲の最中にオボイを捕らえた。以後、康煕帝の親政が始まる。

 



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