唐の則天武后

「武后ノ淫悪極マレリ。然レドモソノ諫ヲ納レ人ヲ知ルハ、マタ自ラ及ブベカラザルモノアリ。……一言合ワバ 、スナワチ次セズシテ用イ、職ニ称ワザレバ、マタ廃誅 シテ少シモ仮サズ」
(『二十二史箚記』)



        
 皇帝在位・西暦690〜705年。627年、工武尚書をつとめた武士カクを父として生まれ、召されて太宗の後宮に入ったが、649年、太宗の死とともに感業寺に入って尼となった。が、また、三代高宗の後宮に迎えられ、持ち前の権謀術数を発揮して反対派を制圧、皇后に立てられた。655年のことである。翌年実子の弘を太子にたてて地位を確率し、後に病気の高宗に代わって万機を決裁し、「二聖」と称された。683年、高宗が死去して中宗が立ったがこれを廃して、弟の睿宗をたて、反対派にに仮借ない弾圧を加え690年周王朝をたて自ら皇帝の座についた。睿宗は皇太子に格下げされた。705年宰相張柬之らのすすめに従って太子に位を譲り、まもなく78年の生涯を閉じる。その治世は、積極的に人材を登用し、文化面にみるべき実績を残した。




メモ
中国三千年の歴史の中で後にも先にも、女性が皇帝の位についたのは、この則天武后ただ一人。
まさに女傑の中に女傑である。当時、儒教道徳が支配した中国では、女性の地位は極めて低く、社会的にはゼロに等しかった。漢代に編まれた『大戴礼』という本に、妻を別離できる七つの条件(七去)があげられている。「父母に順ならざれば去る。子なければ去る。淫なれば去る。妬なれば去る。悪疾あれば去る。口、多言なれば去る。竊盗すれば去る」といった女性の人権など、全く無視されていた社会で武照はその壁を突き破ったのである。中国の後宮には先ず、正妻である皇后のほか、大勢の妃すなわち妾(女官)がいた。妃には一定の身分関係があって、唐代では、貴妃、淑妃、徳妃、賢妃が一人ずつで計四人(これを夫人という)その下昭儀、昭容、昭媛、脩儀、脩容、脩媛、充儀、充容、充媛が一人ずつで計九人(これを九嬪という)、さらにその下にショウヨ、美人、才人がそれぞれ九人ずつ計二十七人、宝林、御女、采女がそれぞれ二十七人ずつ計八十一人に格付けされている。武照は十四才で高宗の後宮に加えれたときは才女で、次に後宮入りしたときは昭儀であった。これから考えてもすさまじい権力闘争があったにほかならない。

 


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