唐の太宗(李世民)

「太宗幼ニシテ臨機果断、小節二拘ラズ、時人ヨク測ルナシ」
「ソノ聴断シテ惑ワズ、善二従ウコト流ルルガ如キハ、千載ニー人ト称スベキノミ」
             (『旧唐書』)



        
 略伝 唐王朝の第二代皇帝。
在位・西暦626〜649年。598年、李淵(高祖)の次男として生まれ、幼時からすぐれた資質をあらわす長ずるにつれて幕下に人材を集めて将来を期した。折しも隋末の大乱にさいし、617年、太原留守の父にすすめて挙兵させ、翌六六年、父の即位(唐の建国)とともに秦王に封じられた。その後も、若くして軍政の要職につき、各地に割拠する軍閥の討伐にあたり、創業間もない華王朝の安定化に寄与した。六二六年、かれの声望に疑いの目を向ける兄の太子建成を倒し(玄武門の変)、その結果、太子に立てられ、同年、父の譲りをうけて皇帝の位についた。即位後も、積極的に人材を登用し、また、かれらの諫言によく耳を傾け、内政、外交に意を用い、唐王朝の基礎を築いた。その治世は、年号をとって「貞観の治」と呼ばれ、まれに見る盛世であったとされる。六四九年、病を得て死去




 貞観政要のなかに、創業か守成かという問答がある。太宗があるとき、側近に創業と守成どちらが困難であろうかと問うと宰相の房玄齢が創業だと答えると、魏徴は守成だと答えた。二人の言い分を黙って聞いていた太宗はこう答えた。
 「房玄齢は、むかし、わたしに従って天下を平定し、つぶさに艱難をなめ、九死に一生を得て今日あるを得た。そなたにしてみれは、創業こそ困難であると考えるのも、もっともなことである。一方、魏徴はわたしとともに天下の安定をはかりながら、今ここで、少しでも気をゆるめれば、必ずや滅亡の道を歩むにちがいないと心配している。だから、守成こそ困難であると申したのであろう。さて、翻って考えれば、創業の困難はもはや過去のものとなった。今後はそちたちとともに、心して守成の困難を乗り越えて行きたい」太宗は、みずからのことはどおり、自己コントロールに徹し守成の名君として、後世に名を残した。




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