魏の武帝


「籌ヲ運シ謀ヲ演ベ、宇内ヲ鞭撻ス・・・・・・
終ニヨク皇機ヲ總御シ、ヨク洪業ヲ成スハ、タダソノ明略最モ優レバナリ。ソモソモ非常ノ人、超世ノ傑ト謂ウベシ」『三国志』 



西暦155年、朝廷の大官であった宦官の家に生まれる。少年時代は、手のつけられない不良であった。20歳で朝廷に出仕、184年、黄巾の乱の討伐に功績をあげ、189年、都を制圧した董卓に仕えることを嫌って都を脱出、
反董卓連合軍に参加。乱世の中で、持ち前の才能にものをいわせて、しだいに頭角をあらわし、黄河流域に、袁紹と対抗する勢力を築き上げた。200年、官渡の戦いで袁紹に大勝、華北に揺るぎない覇権を確立する。
 208年、孫権の呉に進攻したが、赤壁で惨敗、事実上天下は三国に分裂した。だが、依然として天下の三分の二を治め、213年には魏公、216年に魏王に進み、献帝を傀儡にし朝廷の実権を握りつづけた。220年死去。
 その子曹丕が魏王朝を興したのは、それからわずか十ヶ月後のことである。その基礎を築いたのは曹操孟徳であった。




曹操は、『三国志演義』では悪役に徹しているが、実際は、織田信長のようなに英雄的人物であったとおもう。
 曹操は極めて有能な人物で少なくとも、中国史上比類なき傑物であった。
曹操の若い頃のエピソードに、当時、人物の月旦を好んだ許邵という名士のもとにいき、自らの人物評を求めた。許邵は初め返事を渋ったが、たっての頼みに、こう答えた。
「子は治世の能官、乱世の姦雄なり」と、あまりにも有名なくだりである。
 許邵の予言どおり、後に曹操は、後漢末期の群雄割拠のなかに割って入りよく群雄をなぎ倒し北中国を統一し魏王朝の基礎を作り上げたのである。有名な三国志では少し損な役回りであることは事実であろう。 



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