隋の煬帝

「冠服ヲ盛ンニシテモッテソノ姦ヲ飾リ、諫官ヲ除キテモッテソノ過チヲ掩ウ。淫荒、度ナク、……徴税百端、猾吏侵漁シテ、人、命ニ堪エズ」
(『隋書』)



        
 隋王朝二代皇帝。在位・西暦604〜618年。569年、初代文帝の次男として生まれる。581年、父の即位とともに晋王に奉じられ589年、行軍元帥に任命され、隋の天下統一に貢献した。幼時から機敏な性格で要領がよく、巧みに父母に取り入り、600年には兄の勇を皇太子の地位から蹴落としてこれに取って代わった。604年、文帝の死とともに皇帝の位につく。即位後、宮殿の造営、国道の建設、長城の修築、大運河の開鑿など、大土木工事を起こして人民を使役に駆り立て、国勢衰退の原因をつくったとされる




メモ
 世界史上最低の暴君は、ローマ帝国のネロ帝、中国の煬帝であろう。
中国の歴史の中で。暴君と言えば先ず、桀紂・・・夏の桀王と殷の紂王で、とりわけ紂王は「酒池肉林」という言葉を作った人物で、池に酒を満たし、木々に肉をぶら下げて、男女が裸で追いかけまわる宴を昼夜をとわず続けた。煬帝とは謚で、名は楊広といい「煬」とは「天に逆らい民をしいたぐ」といった意味がある。




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